スーパーマーケットの果物の棚に、無花果がかしこまって並んでいた。足を止めて眺めていると、夫が「買う?」と訊いてくる。出始めたばかりのそれはまだ若く、軸近くが浅緑で値段も高い。首を横に振って、もう少ししてからね、と歩きだす。

 無花果は、八百屋で買うものではなかった。もいで食べるものだった。

 東京の郊外に建つ祖母の家には、無花果の木が植えられていた。黒い鉄の門扉を入って、すぐ左。大きな手のひらのような葉をわさわさと揺らすそれは、十歳になったばかりのわたしより、ずっと丈高かった。右手にはアオキが艶やかに繁っていて、その間の黒土に埋められた敷石をいくつか辿ったところに玄関がある。
 横板を黒塗りにした古めかしい家は由緒正しい日本家屋の二階屋なのに、玄関のドアは洋風で、分厚い木の扉に真鍮の把手がついていた。門扉をあけて迎えてくれた祖母が、その把手を華奢な手でぐいっと引くと、頭の上で、かろん、と軽い音がした。見あげれば扉の内側で、鋼色の小さなベルが揺れている。上がり框には案山子のような木製のコート掛けが立ち、てっぺんには灰茶色の山高帽がひとつ、会釈するかのように乗っていた。
 ひんやりと湿った空気の匂いを嗅ぎながら居間に入ると、安楽椅子に深く腰かけた祖父が、やぁいらっしゃい、と、静かに笑う。居間から続く台所から、祖母が声をかけてくる。暑かったでしょ、カルピスが良い? ジュースが良い?

 祖母は、わたしの母にとっての姑だった。祖父はわたしが物心つく前に亡くなった。それからしばらくして、母は既に出奔していた父と別れ、わたしを連れて世田谷の借家に移り住んだ。ひとりになった祖母は小田原で家を借り、料理やお花を教えたり、時には社員食堂の賄いの仕事に就いたりしながら、日々の糧を得て暮らしていた。気ままなひとり暮しを楽しんでいるようにも見えたのだが、わたしが四年生になる年に、旧知の男性に請われて後妻に入ったのだった。
 戸籍の上でのつながりが断たれると同時に、祖母とわたし達は疎遠になっても当然なのに、なぜか縁は切れなかった。離れて暮らしながらも、祖母と母はいつも連絡を取り合っていた。互いの家を往き来して、女三人でお喋りに興じ、時には連れだって旅にも出掛けた。まるで最初から父の存在などなかったかのように。祖母が後妻に入っても、その関係は変わらなかった。血のつながりなどないというのに、祖母の再婚相手というだけで、その人はわたしの祖父となった。二人が暮らす家に招かれて遊びに行くうちに、自然に「おじいちゃん」と呼ぶようにさえなっていた。

  小学校五年の初夏、母とわたしが移り住んだ先は、祖母の家の近くだった。意図してそうしたのか、たまたまそうなったのか、子どものわたしには分からなかった。分からなくても構わなかった。そう遠くない所に祖母が暮らしているというだけで嬉しかった。その上、祖父がいることで、より心丈夫であるような気がしていた。
 出掛けるときには帽子をかぶり、ステッキを片手に歩く祖父は、あまり口数の多い人ではなかった。といって気難しいというわけでもなく、時に祖母が遠慮のない口をきいても、頬にかすかな笑みを浮かべて静かにパイプをくゆらしながら、窓の外を眺めているような人だった。同じように口数の少ない子どもだったわたしも、本棚から取りだした写真集を眺めたり、ぼんやりと庭を眺めるだけで、特に祖父や祖母と話らしい話をするわけでもなかった。それでも特に気詰まりではなかった。部屋数だけはたくさんある古い家には、子どもの遊び道具などひとつもないのに、わたしはその家が好きだった。光と影のはっきりとした家の中で、祖父と祖母が作り出すゆったりとした時間が心地よくて、その年の夏休み、わたしは何度も祖母の家に遊びに行った。
 
 絨毯を敷きつめた居間の隣りには日本間が二間続いていて、その三つの部屋の南側には幅広の長い縁側が伸びていた。縁側の硝子戸の向うには、横長の庭が広がっている。さほど奥行きはない庭だったけれど、小さな池があり、生け垣に沿って植えられた庭木はどれもきちんと手入れがされていた。その合間のそこかしこにも草花が咲いていて、その小さな花のほとんどは祖母が植えたものだった。
 幼い頃、祖母と共に暮らしていた家はマッチ箱のような小さな貸家で、申し訳程度の小さな庭があったにはあったけれど、煉瓦を埋めて花壇を作ったり、花の種を蒔いたりするのは母ばかりで、土いじりをする祖母の姿など記憶になかった。その祖母が、もくもくと土を掘り返したり、枯れた花を摘んだりするのを、わたしは物珍しい思いで眺めていた。
 サッカー地のすとんとしたワンピースに、つばの広い木綿の帽子。しゃがみこんだ後ろ姿の華奢な背中。傍らに積まれた青々とした雑草。如雨露で撒く水に浮かぶ、小さな虹。
 光に包まれたその光景は、どこか夢の中のことのようでもあって、見つめているうちに夏の暑さも忘れ、ついまどろみそうになってしまう。そんなわたしに気づいた祖母が、笑いながら名前を呼ぶ。ちょっと来てごらん。そう言われて、傍らに立つと、花や木をひとつずつ指さしながら、その名前を教えてくれる。
 野アザミ、松葉ボタン、百日草。触れたとたんに葉を閉じはじめるオジギソウ、小さな提灯のようなホタルブクロ。一重(ひとえ)のクチナシの白い花。羽衣のように薄い花びらを風に揺らす木槿の花。
 どんなに暮らしが大変でもお洒落だけは欠かさず、食費を切り詰めてでも口紅を買っていた祖母にしては、地味で淡々とした花ばかりだった。優しい色合いの儚げな花を、祖母は慈しむようにして育てていた。辺りには草いきれが立ち込め、背中を汗が落ちていっても、涼しげに笑いながら、花のことを教えてくれるのだった。そんな祖母を見ているのが嬉しくて、わたしは一緒になってスコップを握り、深く根を張った雑草を抜いたりしていた。

 お昼は、お素麺にしましょう。そう言って祖母は台所からザルを取ってくると、また庭に出て、家の横手に向かっていった。
 庭から表門に抜ける通路の少し湿った土にも、青々とした植物が植えられていた。大葉、ミョウガ、茄子、ほうれん草。指さして教えてくれたそれらは観賞用の草花ではなく、食卓に並ぶものばかりだった。
 ふさふさと繁った大葉の葉を、虫がついていないか確かめながら、ぷちりぷちりとちぎっていく。土から頭を突き出したミョウガの子も、ひとつ、ふたつ。
 花が咲いたものは食べられないから、頭のつぼんだものだけを摘むのよ。
 土の匂いに包まれながら、教わった通りに摘み取って、そっとザルに並べていく。大葉は厚手でうぶ毛が多く、ミョウガはひょろりと細身で色白だった。八百屋の店先で見るものに比べれば、見映えはあまりよくなかった。
 が、台所に戻って水で洗い、まな板の上で刻みはじめると、驚くほど濃い匂いが立ちのぼり、冷たい素麺と共に食べてみれば、目を丸くするほどに濃い味がする。薬味だけで、具など何もない素麺が、いくらでも喉に入っていく。どちらかといえば食の細い子どもだったわたしが、最後の一本まできれいに食べ尽くすのを見て、祖母は満足そうに笑っていた。後片づけを手伝いながら、何度も「美味しかった」と繰り返していると、祖母は、それなら、と、わたしに言った。
 それなら、無花果も食べてみる?

 手のひらを大きく広げたような無花果の葉は、触ると少しがさがさしていた。その葉のあいだから突き出るように、あるいは枝の先からぶらさがるように、下ぶくれのぷっくりとした実がいくつもいくつもなっている。薄い緑色のものもあれば、線を引いたように赤く染まっているものもある。
 これはもう大丈夫。そう言って祖母がもいでくれた実は、全体が紫に近い赤色で、触れる指先に柔らかかった。ちぎれた軸の先から、牛乳のような白い樹液が滴り落ちる。
 こうすると半分に割れるから。熟した実を自分でもひとつ手に持って、わずかに皮のはじけた尻に指を当て、縦半分に割ってみせた。現われたのは、鮮やかに赤い身で、芯にはつぶつぶとした種のようなものが詰まっている。果実であって果実ではないような、見たこともないようなその様に驚いていると、祖母はふふっと笑って、その柔らかそうな芯をかぷりと食べた。皮は食べちゃだめよ。真ん中の柔らかいところだけね。
 真似をして、恐る恐るかじってみる。甘い、と思わず声をあげるわたしに向かって、ね、美味しいでしょ、と、祖母はまるで自分の手柄のように言うのだった。

 あの頃、無花果は店で売っているものではなかった。集合住宅よりも戸建てのほうがまだまだ多い頃だったから、庭に無花果のある家もたくさんあったのだろう。宅地の間に残る野山に分け入れば、野生のままに実をつけた無花果もあったから、わざわざ買って食べるようなものではないと思われていた。
 借家住まいで、無花果を植えるような広い庭とは縁のなかったわたしは、その時まで無花果を食べたことがなかった。それまで暮らしていた世田谷にも、野原や畑は残っていたけれど、分け入るような山はなかったし、公園の雑木林で見かけても、黒々と熟れて割れた無花果には蟻がたかり、食べてみようとは思えなかったのだ。
 無花果のとろりとした甘さは、他のどの果物の甘さとも違っていて、たちまちわたしは虜になった。そっと触って熟れ具合を確かめながら、ひとつ、ふたつともぎ取って夢中で食べた。食べ過ぎてお腹を壊さないようにね、と笑う祖母も、手のひらをべたべたにしながら、小さな口で赤い果実を啄んでいた。

 祖母が初めて嫁いだ家には何十人と使用人がいて、料理はもちろん、掃除も庭仕事も手ずからすることはなかったという。嫁の勤めは、ひたすら社交に限られていて、派手ではないけれど、どこか花のある祖母はそつなく自分の役目をこなしていた。やがて国の制度が変わり、もぎ取られるようにして家屋敷を失い、同時に使用人もいなくなり、息子は出奔し、夫を亡くした。細々としたひとり暮しを送るのち、縁あって後妻に入ったものの、祖父の身内には反対する者も多かったらしい。それでも祖母は、祖父との穏やかな暮らしを大切にしていた。草花を育て、摘んだ花を押し花にして、色紙に貼り絵を創っては、居間の隅に飾ったりして、笑みを絶やすことなく暮らしていた。豊かに暮らしていた頃を懐かしむこともなく、華やかな時代を振り返って、自慢話をするようなことは一度もなかった。
 たぶんきっと、祖母の中には、誇りのようなものがあったのだと思う。口にすることはなかったけれど、由緒ある家の嫁として役目を果たしたことへの自負が、胸の内側に消えずに残っていたに違いない。だからこそ、生活のために賄いの仕事に就こうと、後妻に入って陰口をたたかれようとも、卑屈になることもなく、いつも変わらずに背筋を伸ばして歩いていた。
  いちじくは、花も咲かせずに実をつけるから無花果と書くのだと、教えてくれたのは祖母だった。でも、無花果の花はちゃんとある。あのとろりと甘い、種のような粒々。それこそが、無花果の花なのだ。
 秘かに誇りを抱いていた祖母は、胸の内側にいつも花を咲かせていた。人知れず花をつけ実を結ぶ無花果のように、鮮やかに赤い小さな花を大切に育てていたのだった。


 スーパーマーケットの無花果を諦めてから数日後、赤紫に熟れた実がザルに盛られて、八百屋の店先に並んでいた。値もだいぶ下がっている。夫と顔を見合わせ、迷わずレジに持っていく。
 皮を剥いて四等分にした無花果を器に入れて、ひたひたになるほどの豆乳を注ぐ。そのまま冷蔵庫で冷やして、すくって食べる。とろりとした甘味が、よりクリーミーになり、白と赤の色合いも美しく、それだけで立派なデザートになる。夫が考えたそのデザートを、祖母にも食べさせてあげたかったなと思う。美しいものが好きな祖母は、きっと目を細めて喜んだに違いない。
 祖父も祖母もいなくなったあの家には、まだ無花果の木があるだろうか。初夏の風に大きな葉を揺らし、赤紫の実の内側に花を咲かせているのだろうか。

 無花果が身を浸す豆乳は、もぎとった実の軸から滴る樹液に似ている。初めて食べた無花果を思い出しながら、銀色のスプーンを口に運ぶ。
 ね、美味しいでしょ。
 手柄のように言う祖母の弾んだ声が、聞こえたような気がした。