歯を抜くことになった。
被せてあった金属ごと、奥歯がぽろりと取れてしまったのだ。
歯科医で撮った小さなレントゲン写真には、
先の尖った歯根だけが、2本の杭のように並んでいた。

この根っこは、もう使えないと思います。
先生は小さな声で、でも宣言するかのように、そう言った。
すっきりとした二重の黒目がちな瞳を持つ、美しい女医さんだった。
今はできるだけ歯を抜かない治療法を薦めていますが、
この場合は、放置しておくと隣の歯に悪影響を及ぼしてしまいます。
すでに神経は抜いてありますし、2つの根っこは離ればなれになっているので、
さほど時間もかからないと思いますが。
ゆっくりと丁寧に話す先生の、しんと静かな瞳に見つめられて、
わたしは子どものようにこくりとうなずき、お願いします、と言ったのだった。

これほど医療技術が発達しているというのに、
「歯を抜く」という作業は、いまだにとても原始的だ。
器具をあてがい、押したり揺らしたりして歯肉から剥がし、ぐいっと引き抜く。
もちろん丁寧に段階を経て打たれた麻酔のおかげで、痛みはこれっぽっちも感じない。
が、衝撃はある。
ぐいぐいと押さえつける先生の力は思いのほか強く、
それなのに時おり挟まれる説明は、ゆったりと静かな口調のままで、
そのどこか不思議な言葉を聞くうちに、
なんだか自分が、むりやり乳歯を抜かれる子どものように思えてくる。
為す術を持たない、小さな子ども。
口を大きくあけながら、そんなことを思っていると、
閉じたまぶたの裏に、ふいに祖母の顔が浮かんできた。


その頃母は、家で和裁の仕事をしていた。
わたしが生まれてから4歳になるまで共に暮らしていた父方の祖母は、
母が父と別れてからも、よく家に遊びにきていた。
言ってみれば嫁姑の関係になるのだが、ふしぎに気が合うらしく、
ふたりの間にわだかまりのようなものは感じられなかった。
祖母はいつも、柔らかな色の品の良いブラウスやワンピースを身にまとい、
きちんと髪を整え、薄く小さな唇に淡い口紅を塗っていた。
切れ長の目を三日月のように細め、鈴を転がすような声でころころと笑う人だった。

小学校にあがったばかりのわたしは、遊びに来ていた祖母の隣に座って、
おやつのカステラを、温めた牛乳とともに食べていた。
ぐらつく歯が気になって、時々食べるのを休んでは、舌でそっと探ってみる。
そんなわたしの様子を見て、祖母が言った。
昔は糸を巻きつけて抜いたものよね。
糸を?
驚いて聞きかえすと、縫いあげた着物のしつけ糸を抜きながら、母が頷く。
ぐらぐらしている歯に糸を巻きつけて、一気に引っ張るの。
そうそう、中途半端な力で引っ張ると、痛いだけでなかなか抜けないのよね。
祖母が、眉をひそめ、身震いしてみせる。
男の子はそうやって抜かれることが多かったわね。トシがよく泣いてたわ。
トシおじちゃんが……。
わたしはその光景を思い浮かべただけですっかり怖くなり、
泣きたいような気持ちになって口をつぐむ。
べそをかきながら、揺れる前歯の裏側を怖々と舌の先で触っていると、
母と祖母は口を揃え、さも可笑しそうに笑って言った。
大丈夫よ。うちにはそんなことする人、いないから。

おとな達の会話の中に、一切父は登場しなかった。
わたしが父のことを思い出して淋しがったりしないよう、
子どもに余計な心配をさせないようにと、気遣ってのことだろう。
幼いながらも、わたしはそう思っていた。
だから自分から、父のことを口に出したりはしなかった。
でも、その時わたしは胸の中で思っていたのだ。
きっと、「そんなこと」をするのは「お父さん」の役目なのだ。
だから、わたしは歯をむりやり引っこ抜かれたりはしないのだ、と。

そのことを喜んで、一緒になって笑えばいいのか、
それとも、こくんとひとつ頷くだけでいいものなのか。
そもそも自分の胸の中にあるものが、安堵なのか、淋しさなのか、それさえもよく分からなくて、
まるで抜けそうで抜けない歯のように、心もとなく、もどかしかった。
仕方なくわたしは、やわやわと頭を撫でてくれる祖母に向かって、少しだけ笑ってみせてから、
冷めかけた牛乳に張った白い膜を、スプーンの先で突いていた。

上の歯が抜けたときは、屋根に向かって。
下の歯が抜けたときは、縁の下に。
抜けた乳歯は、そうやって外に放るのだと教えてくれたのは母だったが、
放りながら「鬼の歯になあれ」と唱えるのだと言ったのは祖母だった。
ころんとした小さな歯を掌に握って縁側に立ち、
何度か手をふりあげながら、小声で唱える。
傍らに立つ祖母が、よく通る声で、一緒に言う。
おーにの はーに なあれ
ぽいっと放った白い塊は、ゆるいカーブを描いて軒上に消えていき、
やがてどこかで、かたんと小さな音を立てた。
その音に思わず顔を見合わせると、祖母は悪戯を成功させた子どものように、ふふっと笑った。
隣の家のブロック塀の上で寝ていた猫が、
うるさそうに片目を開けて、ゆったりと大きな欠伸をした。
小さな庭の上には、祖母のブラウスのような優しい水色の空が広がっていた。


予想に反して、わたしの歯の根っこは頑固でしぶとかった。
隣の歯にかなり密着していたために、揺することすら難しかったらしい。
すべてが終わったあと、先生が抜いた歯を見せてくれた。。
銀色のトレーに並べられた2本の根は先が長く尖っていて、
小動物の牙のようにも、砕けた骨のようにも見えた。
いつもの診察のときと同じように、先生はゆっくりと丁寧に説明をしてくれた。
そして最後に、そのトレーをじっと見つめ、呟くように言ったのだ。
――残念でした。

それは、助けられなかった患者を前にして言う医者の言葉のようだった。
その静かで厳かな言葉に、わたしは、はっとした。
そう、この歯の命は、たった今尽きたのだ。
歯を失ったところで命に別状はないと思っていたから、
さほど重大なことだとは思っていなかった。
遅かれ早かれ、いずれは失うものだと諦めてもいた。
歯にも命があるのだということを、今の今まで忘れていた。

抜けた乳歯のあとから生えてきた白い歯が気になって、
鏡を覗きこんでは、しげしげと見つめていた、あの頃。
永久歯というものは、永久にあるものだと思っていた。
それは屋根に向かって投げた歯よりも、ずっと厚くて大きくて、
たしかに「鬼の歯」のようだった。
鬼の歯だから、生きつづけることができるのだ。
乳歯のように抜けたりせずに、「永久」にここにある。
そう思っていた。

永久にあるはずだった歯の命は、わたしよりも先に尽きてしまった。
まじないを唱えて思いきり放ったところで、もう「鬼の歯」は生えてこない。
縁側に並んで、共に唱えてくれた祖母も、もういない。

残念でした、と呟いた先生は、それきり口を閉ざし、銀色のトレーを眺めていた。
わたしも同じようにして、そこに並ぶ白い歯の根をじっと見ていた。
ふたりして、砕けた骨のような小さな欠片を、長いあいだ見つめていた。