陽射しを浴びてふくらんだ羽毛布団を、くるくると丸めるように畳みこみ、布団袋に閉じこめる。夏用のシーツに変えたベッドにはタオルケットと薄掛けを広げ、ベッドカバーを掛け終えると、やけにさっぱりとして心許ない。夫とふたり、ぺたんこのベッドの両側に立ち、これだけじゃまだ寒いかな、と首を傾げる。 

 今年の五月は、初夏という天候にはほど遠く、半袖一枚で軽やかに歩いた日は片手に足らぬほどだった。晴れた日でも空は春のように朧に霞み、かと思えば気の早い台風がやってきて、咲いたばかりのエゴノキの花を散らしていった。小さな白い花に埋めつくされた地面を見おろして溜息をつき、せめてもと仰いだ天にも、台風一過の磨きあげたような青空はない。ひやひやと湿って冷たい風に、繁る青葉も震えている。

 それでも、さすがにもう冬物はそぐわない。見た目にも暑苦しいからとセーターをしまい、わずかな晴れ間に飛びつくようにして寝具を入れ替えることにした。優柔不断な季節の顔色を見ていてはきりがない、と思い切ることにしたのだった。
 いっそのこと制服のように六月一日が衣替えと決まっていれば、こんなに悩まずに済むのにね。見た目に反して重みのない布団袋をクロゼットに押し込みながらそう言って、そういえば有無を言わさず衣替えとなるものが他にもあった、と思い出す。


  母と娘、ふたりきりの小さな借家には、和室が二間あるだけだった。それでも、余計なものなど何もない畳の部屋はいつもすっきりと片づいて、さほど狭いとは感じなかった。が、そんな家の中にひとつだけ、大きな家具が置かれていた。それが母の和箪笥だった。
 着物の仕立て仕事をしていたせいもあったのだろう。まだ年若い母は、和服を着ることが多かった。家にいる時は、汚れても構わないような紬や木綿、冬にはウール。それらの普段着は簡単に畳まれて、箪笥の深い引出しに重なっていた。「よそ行き」だけが、その大きな和箪笥に仕舞われていた。
 和服には季節の決まり事がたくさんある。五月も半ばを過ぎれば、もう袷(あわせ)は着られない。朝晩に吹く風がまだ冷たかろうと、着るのは単(ひとえ)に限られる。だから五月になると、母は決まって衣替えをした。どんなに晴れ間の少ない年であっても、できるだけ雨の気配のない日を選んで、迷うことなく季節を入れ替えてしまうのだった。
   
 
 衣替えの日、母は朝から家中の窓を開け放ち、和箪笥の大きな扉を次々に開いていく。薄い引出しに重なる畳紙(たとうし)の端を捲って中を確かめ、細い腕をすっと差し込んでは、畳紙ごとするりと抜き出し、畳の上に並べていく。
 畳紙の紐は和紙のこよりだから、そうっとね。そう言われて、恐る恐る紐の端を指でつまみ、息を詰めるようにしてそっと引く。表にふたつ、内側にひとつ、蝶々結びを解いて畳紙を開くと、色とりどりの模様が現われて、思わずわたしは目を見張る。千代紙のような、あるいはお雛様の衣装のような艶やかな柄に見惚れていると、横から母の手が伸びてきて、長四角に畳まれた着物をつかみ、手品師のようにさっと翻す。ふわりとほどける着物と共に、鼻をつく樟脳の匂いと、匂い袋の甘い香りが、入りまじって丸く広がる。
   
 襟や袖、袂(たもと)や裾を捲りながら、母は丹念に汚れを確かめる。その衣擦れの音を聴きながら、わたしはぺたんと座りこみ、膝元で波のようにうねる着物に手を伸ばす。すべすべとした手触りのよそ行きは、どれもしっとりと肌に吸いつくようで、ひんやりと冷たい。所々に金や銀の刺繍が浮き出ていて、人さし指でそのでごぼこを辿っては、これはなあに、と訊いてみる。そのたびに母は、機嫌良く答えてくれる。牡丹、うぐいす、御所車。
 大好きだった桜の花模様の着物を見つけ、これもしまってしまうの、と口を尖らせると、母はきっぱりと言うのだった。桜の着物を着られるのは、つぼみがふくらむ頃から、咲き始めるまで。季節の先取りはいいけれど、後戻りすることはできないのよ。よく分からないながらも、ふうん、と頷くわたしに笑いかけ、両腕を開いたような衣紋掛けに着物を広げ、鴨居にかける。風をはらんでふくらむ袂に、白い花びらが名残惜しそうに散っている。

 小さな泥はねや、白粉の染みはベンジンで落としていく。畳んだガーゼにほんの少し滴らせ、ぽんぽんぽんと優しく叩くと、汚れは小さく薄くなり、やがて跡形もなく消えてしまう。硝子瓶の中の無色透明なベンジンは、まるで水のように見えるけれど、匂いはきつい。ガソリンにも似た眉をしかめるような匂いなのに、なぜか嗅がずにはいられないような匂いでもあって、思わず鼻を近づけると、母はすかさず「あっちに行ってなさい」と窓の向うの濡れ縁を指さして言う。渋々と窓辺に腰をおろし、根気よく動く母の指を眺めているうちに飽きてきて、箪笥の前に立って行く。帯締めや半襟の入った引出しを開けて眺めたり、畳紙の重なった引き出しをするすると引っぱり出してはまた閉めて、何か面白いものはないかと目を光らせる。と、空になった軽い引出しの片隅に、小さな箱を見つけて手を伸ばす。  

 マッチ箱ほどの大きさの、桐の箱。妙に軽い。なんだろう。揺すってみても音はしない。振り返って差しだすと、母は、ああ、と頷いて、開けてごらんと微笑んだ。
 そっと蓋をあけてみると、白い真綿に埋もれるようにして入っていたのは、虫だった。椎の実を大きくしたような長細い虫。その翅は、不思議な色に輝いていて、手に持つ角度によって青にも緑にも赤にも見える。夜の虹のようなその色に、思わず「きれい」と呟くと、母は「こがね虫よ」と笑って言った。
 これが、こがねむし。コガネムシなら知っている。歌だって、ちゃんと唄える。でも、今の今までコガネムシがどんな虫なのか、考えてみたこともなかったけれど。
 指で触れると、固く乾いていて、冷たかった。とうに死んでしまったものと分かっても、怖くはなかった。

 コガネムシは かねもちだ。
 歌ってみせると、母はひっそりと横たわるその虫をつまみあげ、わたしの手の上にのせてくれた。かそこそとした脚が手のひらに触れてくすぐったい。
「こがね虫って、オウゴンの虫って書くの。エンギの良い虫なのよ」
 オウゴンという字も、エンギということばも、よく分からない。分からないけれど、でも良い虫に違いない。なにしろ、おかねもちなのだから。黙ったまま、手の中の虫を見つめるわたしに向かって、母は続ける。
 だからね。こがね虫を箪笥に入れておくと、「衣装持ち」になれるんだって。
 そう言いながら、新しい脱脂綿を薄く剥いで、黄ばんだ綿と取り替えると、コガネムシをそっと戻し、きっちりと蓋をした。

 あのコガネムシは、いつから箪笥の中にいたのだろう。母の嫁入り道具であるあの大きな和箪笥には、嫁ぐ時、すでにコガネムシが忍ばせてあったのだろうか。その謂われの通り、いっときはあの箪笥にたくさんの着物が仕舞われていた。仕事に就いて日々の糧を得るという暮らし方を知らなかった父が、ない袖を振って借金に追われ、挙句の果てに遁走してしまったあと、和箪笥の中には透き間ができた。母が和裁を仕事にしたのは、父と別れてからのことだった。幼いわたしを残して、勤めに出るわけにいかなかったから、家に居ながらできる仕事として和裁を生業(なりわい)にしたのだった。もしかしたら、七色に輝くコガネムシは、その頃に母がみつけて、そっと忍ばせたものかもしれない。

 年を重ねるごとに母が和服を着る機会は減り、わたしが高校にあがると同時に勤めに出るようになってからは、元日に着るウールの着物しか出番はなくなった。それでも、季節の変わり目には箪笥の扉を開け放ち、大事な着物を選んで衣紋掛けにかけ、風を通すことだけは欠かさなかった。そのたびに、わたしは小さな桐の箱をあけて、夜の虹のようなコガネムシの翅にそっと触ってみるのだった。

 暮らしの中に和服が溶けこんでいた頃、季節の移り変わりは今よりもっと潔かった。季節を先取りすることこそが粋で、後戻りすることは野暮。そんな着物の決まり事と共に、季節はくるりと入れ替わる。衣が替れば、部屋のしつらえもそれに倣う。重たい冬布団は四隅を開き、綿を干したり替えたりして打ち直し、窓には簾をかけ、扇風機の埃を払い、団扇や蚊遣りを出して並べる。季節を後追いするのではなく、迎えに行く。そうすることで、からだも心も覚悟が決まる。移ろう季節を受け入れて、いち早く馴染むことができるから、天の気まぐれに右往左往することもない。衣替えとはそういうものだったのだ、と、今にして思う。

 やけに軽い薄掛けにくるまって眠ることにも慣れ、ようやく六月と思ったら、とたんに梅雨入りだという。初夏を飛ばして梅雨寒か、と、恨めしげに空を見あげながら、春物と夏物が入り混じる引出しの前に立ちつくす。長袖のTシャツに厚手のパーカーを重ねて着こみ、傘を手に買い物に出ると、そこかしこに紫陽花が咲いていた。辺りに立ち込める水の匂いに勢いを得るかのように、いきいきと天を仰いでいる。たしかにもう梅雨なのだと、あらためて思う。
 優柔不断な季節に、文句を言うのは人ばかり。そう呟きながら顔をあげると、鼠色の低い空の下、白い花が咲いていた。あ、と思わず指をさし、「夾竹桃」と立ち止まる。夫と並んで見あげながら、いつのまに、と首を傾げる。                

 緑濃く繁る葉に、明かりを灯すかのような白い花。その陰には、無数の蕾が控えている。どんなに天気がすぐれなくとも、季節はきちんと入れ替わる。確実に夏は近づいている。
 空模様に惑わされることなく、自ら時を決め、潔く花を咲かせる夾竹桃に、母の衣替えを思う。あのコガネムシは、今もあの箪笥の中でひっそりと眠っているのだろうか。
 見あげる額に、ぽつりと一粒しずくが落ちる。ぽつりぽつりと滴る雨に、真白い夏の花が、頷くように揺れている。