ゆかりちゃんって、覚えてます?
ひとつ年下の友人が、ふいにそう言った。
ゆかりちゃん?
首を傾げるわたしを見て、彼女は微笑みながら、何かを促すように小さく何度か頷いた。

彼女とは中学で知り合い、それから短大まで同じ学校に通っていたが、卒業してからは手紙のや
り取りをするだけになっていた。共に20代後半にさしかかった頃、「結婚することになりました」
という手紙をもらい、それならお祝いしなくちゃね、と久しぶりに会うことにしたのだった。
が、唐突にこぼれた「ゆかり」という名に心当りはなかった。わたしの友人にも彼
女の友人にも、そういう名前の子はいなかったはずだ。

ほら、世田谷の小学校に通っていた頃。
小学校? そう、そうだった。彼女とは奇遇にも小学校までもが同じだったのだ。わたしは5年
生になってすぐにその小学校から郊外の市立小学校に転校し、そこから程近い私立の中学に入学
した。その1年後、彼女は世田谷の小学校を卒業し、同じ中学に入学してきたのだ。と言っても、
そのことを知ったのは知り合ってから数年後のことで、確かにその時はあまりの偶然に驚きもし
たけれど、その後ふたりの間で小学校の思い出話をすることは殆どなかった。

ああ、あの頃、と呟きながらもさっぱり思い出せなくて、尚も首を傾げるわたしに彼女は言った。
向かいの家に。
向かいの家?
予期せぬ言葉に驚いて、つい声高に返したとたん、思い出した。
あの大きな向かいの家と、小さな女の子のことを。

母が父と別れて、世田ヶ谷のはずれに建つその家に引っ越したのは、わたしが四歳の時だった。
六畳二間の借家だったが、表と裏に小さな庭があり、それぞれに縁側がついていた。裏庭の縁側
は外に突き出た狭い濡れ縁だったが、表のそれは大きな掃き出し窓の内側にあり、広々として明るかった。母はそのすぐ傍に裁ち台を置いて和裁の仕事をしていたから、年中風邪をひいて幼稚
園を休んでばかりいたわたしは、いつもその縁側を遊び場にしていた。何冊もの絵本を広げて物
語をつなぎ合わせてみたり、「こどもゆうびん」の薄っぺらい「はがき」に覚えたてのひらがな
を書いて、玩具の切手をぺたぺた貼ったり。

遊び疲れると、窓の外をぼんやり眺めた。庭の垣根の向うには、細い道を挟んで大きな二階屋が
建っていた。広い庭には木々が鬱蒼としげっていて、梢の透き間からのぞく黒壁にはびっしりと
蔦が這い、窓のついた三角屋根は空を突き刺すかのように尖っていた。まるで絵本に描かれた家
のようだった。どんよりと曇った日には魔女の棲家みたいに思えたし、眩しいほどに晴れた日に
は、木漏れ日に輝く妖精の家のように見えて、そのたびに、あの家の中はどうなっているんだろ
う、どんな人が暮らしているのかと、秘かに思いを巡らせていた。

大事をとってもう一日、と、いつものように幼稚園を休んだ日の昼下がり、母にねだって庭に出
た。穏やかな春の日だった。わたしは日溜まりの中にしゃがみこみ、花壇の煉瓦を往き来する蟻
を見ていた。ちびちびとビスケットをかじりながら、その欠片を蟻にも分け与え、自分のからだ
の数倍もあるそれを運ぼうとするその様を、飽きることなく眺めていた。

と、ふいに、日溜まりに影が落ちた。驚いて顔を上げると、すぐ傍に色の白い小さな女の子が立
っていた。弾けるように立ちあがり、思わず数歩、後ずさる。が、その子は驚く様子もなく、た
だ黙ってそこに突っ立っているだけだった。極端な人見知りだったわたしは、自分から話しかけ
る勇気もなく、かと言って家の中に逃げ込むわけでもなく、同じようにただ黙ってじっとその子
を見つめていた。小さな顎、まっすぐな黒髪、細い手足。クリーム色のセーターに、チェックのスカート。

どれくらいそうしていたのだろう。彼女は唐突にスカートの裾を翻すと、来たときと同じように
音も立てずに帰って行った。垣根の透き間をすり抜けて、細い道を渡り、向かいの家の生け垣の
間に吸い込まれるように消えたのだった。

その日から、女の子は時々姿を見せるようになった。その子の存在に気付いた母が、わたしに代
わって話しかけると、彼女もぽつぽつと言葉を返した。「ゆかり」という名前で、ひとつ年下。
そんな短いやり取りが幾日か続いたあと、人見知り同士のわたし達はようやく一緒に遊びはじめ
た。彼女はわたしにとって、家に遊びにくる初めての「ともだち」になったのだ。

ゆかりちゃんは大人しい女の子だった。縁側に玩具箱を広げると、人形のひとつを手にとって、
もくもくとドレスを着せたり脱がせたりしている。絵本を差しだせば、1頁ずつゆっくりゆっく
りと捲っていく。そんな彼女と向かい合い、わたしも同じようにして遊んでいた。ふたりともあ
まりに静かすぎて、居るか居ないか分からないほどだと、母が笑った。

昼過ぎに来て、三時のおやつの時間になると、ゆかりちゃんは家に帰っていった。毎日のように
一緒にいたのに、わたしが向かいの家に呼ばれたことは一度もなかった。それどころか、あの大
きな家に、ゆかりちゃんの他に誰が住んでいたのかさえも、はっきりとは分からないままだった。
が、それでも別に構わなかった。
表から覗けば裏庭まで見通せるような小さな家で、鏡の中の自分と遊ぶように、ひとり遊びをし
ている女の子がふたり。着物を縫う母の、絹をさばく音だけがしゅるしゅると響くどこか奇妙な
光景だったが、わたしはそのしんと静かな時間が好きだった。心安らかに楽しかった。

そんなわたしでも、小学校にあがってからは、ひとり、ふたりと友だちが増えていった。誘われ
て外で遊ぶようになると、風邪で寝つく回数も減りはじめ、同時にゆかりちゃんと会う時間も少
なくなった。いつの間にか彼女が訪ねてくることもなくなって、やがてわたしはゆかりちゃんの
事を忘れていった。

夏の初めの引越しの日。がらんとした縁側に立って、わたしは外を眺めていた。庭の垣根も向か
いの家の生け垣も意外なほどに低く思えて、なんだか不思議な気がしていた。ぼんやりと突っ立
っているわたしに、小さな段ボールを抱えた母が「そこ、鍵かけておいて」と声をかけた。
「ねぇ、お向かいの家って、どんな人が住んでるの」
幼い頃に聞きそびれたその問いかけを、わたしは初めて口にした。
と、母は呆れたように笑って言った。
「なに言ってるの。ずっと空き家だったじゃない」
え? わたしは一瞬息を飲んだ後、じゃあ、あの子は? ゆかりちゃんは? そう訊こうとした
とたん、表から運送屋さんの呼ぶ声がした。返事をしながら母はサンダルを突っかけて、ばたば
たと外へ出て行った。

窓を閉め、鍵をくるくると回し掛けながら外を見ると、古びたその家は確かに空き家のようにし
か見えなかった。生い茂った木々のあいだに覗く窓にはカーテンもなく、ただ、流れていく白い
雲をぼんやりと写しているだけだった。
あの子は、いつのまに引っ越していったのだろう。いったいどこへ行ってしまったのか。
雲が太陽を隠したのか、ゆっくりと日が翳りはじめた。窓硝子に、半透明のわたしの顔と向かい
の家が重なって写りこむ。――もしかしたら。
もしかしたら、いなかったのかもしれない。初めから、ゆかりちゃんなんていう子は、いなかったのかも……。


だが、いたのだ。
あの子は、いた。
友人が言ったのは、まさにあの「ゆかりちゃん」のことだった。
幼なじみの結婚式に出席したら、そこに来ていたのだという。小学校の2年生で転校していったゆかりちゃんと、懐かしく思い出話をするうちに、偶然わたしの名前が出たのだ、と。
「彼女、言ってました。よく遊んでもらったって」
毎日、縁側で遊んでたの、って、すごく懐かしそうに話してましたよ。


ゆかりちゃんもきっと、少しずつ変わっていったのだろう。たくさんの友だちを得て、笑い転げ、
お喋りをして。明るく元気な女の子になった彼女は、あの大きな家を後にするとき、きっと別れ
を告げたのだろう。無口で人見知りだった幼い自分に。だからこそ何も言わずに、そっと去って
いったのだ。そしてわたしも同じように、あの小さな家に小さな自分を置いてきた。新しい町で
新しい自分と生きていくために。

長い月日が経った今、もしどこかですれ違ったとしても、きっと互いに分からないだろう。気づ
かないまま、通り過ぎてしまうのだろう。
でも、彼女とわたしの記憶の中には、今もあの二軒の家が残っている。
大きな家の向かいの、小さな家。
光に包まれたその縁側で、ふたりの小さな女の子がひっそりと遊んでいる。
しんと静かな時の中で、合わせ鏡のように向かいあい、飽きることなく、いつまでも。