籠の中で、蜜柑がしなびていた。夫もわたしも蜜柑が好きなくせに、八百屋で山盛りの
蜜柑を買ってくると、食べきれずに萎びさせてしまう。あまり間食をしない大人がふたり
きりの家だから、食べても一日にそれぞれひとつずつ。最後の二つ三つになる頃、蜜柑は
ひび割れた老婆の握りこぶしのように、がさごそと小さく縮んでしまっている。

 ジュースにしようか。そう言って、萎びさせてしまった後ろ暗さを拭い取るかのように、
冷たい水で蜜柑を皮ごと洗う。横半分にすっぱりと切る。現われた果肉は思いのほか瑞々
しくて、鮮やかな橙色をしている。プラスチックの白いレモン絞り器に、切り口を押しつ
けてぎゅうぎゅうねじる。果汁があふれ、受け皿に空いた幾つもの小さな穴から、下の容
器にぽたぽた落ちる。ざらついた固い皮に反して実はもろく、絞り器のねじれた溝に削ぎ
取られて、ぽろぽろと受け皿に溜まっていく。甘酸っぱい匂いが立ちのぼる。

 受け皿を外して器の中を見ると、果肉と同じくらい鮮やかな橙色の果汁が波打っていた。
皮が縮んで小さくなった分、実に詰まっていた果汁がぎゅっと濃縮されたかのようだ。濃
縮果汁100%。言い合って、笑う。
 そういえば。ふいに思い出して夫に言う。
 そういえば子どもの頃、「あぶりだし」ってやらなかった? 蜜柑を搾って、その果汁
を筆につけて。
 ああ、と、夫は思いがけず大きな声を出した後、そういえば、やったなぁ、と、ゆっく
りと呟いた。遠くから何かをたぐり寄せるかのようなその口調に、どこかに埋もれていた
記憶の蓋が、かたんと外れた。


 小さなてのひらで両目を被いながら、わたしは座布団の上に座っていた。炬燵に背を向
け、窓に向かって、辛抱強く待っている。天井から下がった白熱灯に照らされて、部屋は
橙色に染まっている。母は炬燵に向かっていた。
 炬燵の上には、かごに盛られた蜜柑と湯呑みがふたつ、陶器の小鉢、筆、わら半紙。薄
茶色の小鉢の中で揺れているのは、鮮やかな黄色い果汁、蜜柑の絞り汁だ。母は、果汁に
浸した筆を小鉢の縁で整え、紙の上で大きく走らせる。ざらざらとしたわら半紙に筆の擦
れる音。

「もう、いいかい?」てのひらで目隠しをしたまま、わたしが言う。
「まあだだよ」母の細い声が、のんびりと答える。
 ガスストーブの上では、薬缶がしゅるしゅると湯気をあげている。小鉢と筆の触れあう
音がして、痺れを切らしたわたしはもう一度言う。
 もう、いいかい? まあだだよ。
 目隠ししていた両腕が怠くなり、てのひらをそっと外してみる。
「まだだめよ。乾くまで、もう少し待ってなくちゃ」
「だいじょうぶ。ちゃんと目を瞑ってるもん」
 紙をぱらぱらと扇いで、果汁を乾かす音がする。外はきんと冷えていて、窓硝子が白く
曇っている。置き時計の音が響く狭い部屋の中は、ストーブの熱気で頬が火照るほどに暖
かい。
「もう、いいよ」
 頭を撫でるかのような母の声に、まぶたを開ける。ぎゅっと瞑っていた目の中に、白い
光の点が蛍のように飛んで瞬く。

 振り返り、炬燵の上に手を突いて、わら半紙を覗き込む。湿り気を残しながら、ところ
どころ引きつれたように撓んだ紙には、たしかに何かが書かれた跡があるのだけれど、そ
れが何なのか分からない。
 両手の親指と人さし指で、紙の上端を摘んでそっと持ちあげる。しずしずと歩いて行っ
て、蜜柑箱を横倒しにしたような形のガスストーブの前に座り込む。ストーブの中には、
赤々と燃える芯が、横に二本並んでいる。取りかこむ金属の壁面に、覗きこむわたしの顔
が映っている。

 燃えないように加減しながら、わら半紙をストーブにかざす。摘んだ指の先が、寄せた
頬が、ちりちりと沁みるように熱い。紙をかざしたまま、遠ざかったり、近づいたり。動
く度に壁面に移った自分の顔がゆがむのがおかしくて、笑いながら何度も同じ事を繰り返
す。真っ赤な芯に、ときおり青い炎がぽっと揺らめく。
 と、わら半紙に茶色い点が染みのように浮きあがる。肌を刺すストーブの熱を我慢しな
がら、うっすらと表れる茶色の濃淡に目をこらす。紙には、二粒、三粒、蜜柑の実が貼り
ついていて、果実と紙の焦げる匂いが部屋の中に満ちしていく。甘酸っぱくて香ばしい匂
い。

 わずかな時間のうちに、藁半紙は時を遡ったかのようにセピア色に様変わりし、焦げ茶
色の曲線が烙印のように浮かびあがる。筆から滴り落ちた果汁の小さな染みまでが、くっ
きりと焼きついている。わたしは、縦に並んだ二つか三つの平仮名を、一音一音はっきり
と得意げに読んでみせる。
「当たり。じゃあ交代ね」
 筆を差し出しながら、母が笑った。

  ふいに思い出した、まだ年若い母の笑顔は、やけに鮮明だった。が、あぶりだしの紙に
書かれていた文字は、浮かんでこない。あの時、母は、いったい何を書いたのだろう。
 たぶん、小さな子どもにも分かるような短い言葉。そら、うみ、つき、ほし。
 あるいは、わたしや母や祖母の名前。あの頃よく訪ねてきていた伯母や従兄の名前だっ
たかもしれない。でもきっと母は父の名を書かなかった。
 あの頃には誰もがもう、いなくなった父の名を口にしなかった。それが自分を気遣って
のことだと、幼いわたしは知っていた。そのせいなのか、大人になるまで父の名前を忘れ
ていた。名前どころか顔さえも忘れてしまっていた。
 
  搾った蜜柑の果汁は、ちょうどコップに一杯分だった。
 夫と半分ずつ、分けあって飲む。
 いかにも蜜柑色のそれは、砂糖を混ぜたかのように甘かった。ごくごくと飲み干すのが
惜しくて、ゆっくりと噛むようにしてひとくちずつ味わう。甘酸っぱい匂いが体中に広が
っていく。
 遠い日々を思い出すのは、「あぶりだし」とどこか似ている。ぽつんと浮かんだ小さな
点と点とが繋がって、みるみる何かを描き出す。いくら火にかざしたところで、炙り出せ
ない記憶もあるけれど、でもそこには確かに何かが書かれている。白紙ではない。がさご
そとしたわら半紙そのものが、思い出の一片なのだった。
 甘すぎるほどの果汁を飲み干して、美味しかったとコップを置いた。
 窓の向うを悠々と鳶が飛んでいく。空に大きな輪を描きながら、心地よさそうにひゅる
ひゅると鳴いている。陽射しの明るい、暖かな冬の午後だった。