ミメイさんの書いたものに触れるとき、わたしはいつも、執筆している彼女の周辺に、夜の静寂と闇を感じずにはいられないでいた。人の書くものは、時間帯によってその性格が変わると言われるけれど、ミメイさんは、疑いようもなく「夜のモノカキ」だと感じたのだ。
軽めのエッセイにすら漂う深い余韻には、無我の境地にも似た感触が味わえるし、登場人物たちは、佇むようにそろりと慎重に進む筆致によって、わずかに残像を残しながら動き、かすかなこだまを響かせながら語る。そんなイメージを確固としながら彼女の著作「溺レルアナタ」を手にとったわたしはしかし、「家鳴り」を読んだ時、その静けさと闇の中に、強烈な力強さを感じ、1冊を読了したその時には、ミメイさんの描く世界が、静寂と闇をまといながらも神秘的にはならずに生を見据え、幻想ではなく容赦のない真実を描き、可能性と絶望の端々を見せつけてくれると悟った。そこにはすでに「夜」は見えなくなっていた。こちらの想像が及ぶ程度に限られた場所になど、とどまっているミメイさんではなかったことを、知ったのだ。

「溺レルアナタ」というタイトルのこの1冊は、幼女の心を忘れない作者の巡る想いがふとこぼれた、ほの淋しくもかわいらしい「稚イ夏」という2編の詩をしおりのように挟みこんだ短編小説4編、合計6編から成っている。「家鳴り」「ニンギョヒメ」「オリヒメ」と、なんと多様な小説世界を描き分けるのだろうかと、ミメイさんの底力をあらためて知る思いで読み進んでいたのだが、表題作である「溺レルアナタ」にさしかかった時、全作の底辺が、絹糸のように繊細に美しい一本の糸で、"ツっ"とつながるのを感じた。大河に溺れる男のイメージを待つまでもなく、重くたれこめる空、夕立、井戸のそばに濡れそぼって立つ女、春の嵐、梅雨、そして、空梅雨という表し方をも含め、全編にからむ、水。この本に限らず、ミメイさんの描く世界には、生の息遣いにからんで、植物の青みとなまめかしさがつきまとう。水の過不足に左右される植物の生を女性に置き換えて描く、田川未明という作家が処女作としたこの1冊は、全編にたゆたう水の重みからこそ「溺レルアナタ」というタイトルが出現したように思った。
このタイトルを冠した作品は、実存するシャンソンからインスパイアされ書かれたものだと、あとがきの中で述べられている。だが、「溺レル」というイメージは、水の重みを通して他の作品にも通じている。そんなふうに、わたしは思ったのだ。

"水"の他にも4作品に共通するのが、"29歳の女"だ。彼女達は、男という生き物を愛する意味を知っている。自分の生と性の量りを正しく振らせ、迷いなく抱かれて後悔をしない。すでに女としての自分を立て生きてきた彼女たちは、そこから先の人生を引き続き生きることに疑問があるわけではない。なのに、30歳という年齢を前にして、ほんの少し、どこかから軋む音がするのだ。その軋みに、あふれんばかりの水が注入される時、彼女達は自分にとって正しい方向へと、より強く、その顔をまっすぐに向け進むことが遂に可能となる。そう、彼女達は、水を操作し味方につける。雨を操り水を満たし、養分として身につけ伸びる女たち。その方向はさまざまでも、女たちに躊躇はない。そんな女の前で、男は背筋を冷たくする。

「家鳴り」の中で、「命や、血や、色々なものを引き継いでいく子どもを産む」そのために、雄を食べてしまうこともあると語られる鈴虫の生態。逞しく正しく、生を、そして性を生きる女たちの姿もまた、寡黙に、天真爛漫に、背筋を震わせ、そして女のために笑みを浮かべながら溺れゆく男たちによって、鮮明にその生態を顕わす。そのことを伝える語り部が、女の権化たる家であり、まだ若い女の芽であり、女の生命力に怯える男であり、最後にとうとう、鈴という名の女性自らの言葉となるのだ。

男と女の物語ではない。これはどこまでも、女の話だ。そしてそれは、命を生むことのできる雌としての生態がそうさせている、生き物すべての本質だ。だからこそ、ミメイさんの描く作品には、幻想でも神秘でもない闇があり、命を踏まえたエロティシズムがあるのだろう。こういう逞しさと正しさをこそ、ずっと求めてきたような気がするわたしは、きっとこれからますます、「ミメイさんのことが大好きな」と言われるようになるのだろうと予感しながら、いつまでも「溺レルアナタ」の本を抱きしめ、その感触を愉しんでいる。 


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