田川ミメイさんの「ミ・メディア」には九鬼ゑ女さんとスギモトキョウコさんの絵から生まれた短編小説があります。
スギモトさんの絵とのコラレーションが「Shampoo」、九鬼さんとのコラボが「hide&seek」です。「絵物語」として紹介されています。

この二つの物語はともに、「私」探しの物語だいうのが読んでいて強く思ったことでした。
「Shampoo」は倦怠期の夫婦とシャンプーボーイの話。
文字どおり生活に倦み疲れている「私」は偶然はいった美容室の見習いとおぼしき、若い男の子のシャンプーの指に、心を揺さぶられます。

非日常の空間=美容院を持つことで、生活ははりを取り戻し「私」は生き生きとしてきます。
しかし、男の子に揺れる心を素直に見つめながらも、夫の思いもかけない優しさに触れて、夫婦は「鏡」のような関係であることに思い至ります。気づくという方があたっているかな。

そこから二人の関係は劇的に修復されていくわけですが、作者は書いていないけれど二人映るショーウィンドウがあるとしたら、そのむこうに美容院があり、そこの鏡が合わせ鏡になっていてその隅にシャンプーボーイがいるような気がして仕方がないんです。

シャンプーボーイではなくてシスターボーイだった現実の彼ではなく、主人公の「私」がつくりだした「彼」です。相手にこうあってほしいという願いの具現化した「幻の彼」です。
それはじつのところ「私」を慰め、「私」を前に向かせていた「私」に他なりません。

「私」は「私」によって救われようとて、幻想に溺れる寸前で、より強い「夫婦関係」に救われたのでした。
だけど、夫が夫婦という関係に気がついたのも、いつも身ぎれいにし、きちんとシャンプーをする妻がいたからで、その妻がなぜシャンプーをするかというと、シャンプーボーイがいたわけで、シャンプーボーイは「私」が指に翻弄されながら創りあげた「幻想」であるのなら、結局、「私」が「私」を救い出しているのです。

と、いうのがぼくの読み解き方でした。
ディテールの透明感、文章のリズム。これはもう、ぼくが未明さんのすばらしいところだと昔からいっている通りのもの。堪能しました。

つぎの「hide-and-seek」も、同じ見方でほどくことができます。
こちらのほうが、より「自分探し」の物語としてはわかりやすいと思います。非日常=家出をいきなり設定するところから物語が始まりますから。
待つ人のいない、探されることのない日常からのエスケープによって「私」は現実感覚から浮遊して、この世にあらざる空間を自分の周りに現出させてしまいます。そう、白昼夢というのが近いかもしれませんね。

「慎吾くん」はスピリチュアルガイドとして現れ、彼女のインナーチャイルド探しを手伝ってくれます。悲しみと孤独と理不尽さのなかに立ち往生し、フリーズした「子供の私」を、見つけ出すことで「私」はふたたび現実に生きていく力を取り戻していきます。

ここでも「慎吾くん」という存在は、「私」のつくりだした「もう一人の私」ともいえるのでは。彼との会話は実のところ自分自身との会話で、そうやって自らを救い出していくドキュメントが語られているように思えたのでした。
「慎吾くん」という名の鏡をみつめることによって。


「鏡」とともに大事なのが「非現実」ということ。その空間でしかなしえないことも…あるんです。
例えば、それは絵です。
お二人の絵はともに「ありえない」絵です。
「ありえない」からこそ、異化され、惑わされ、そしてそこから立ち上がる印象と感覚と物語があって、未明さんは彼女のやり方で自分の中から物語を紡ぎ出したのでしょう。

「絵」もまた、鏡なのだと思いました。

哲学者、谷川徹三氏は「もののなかの精神」を読み取るのが芸術だとおっしゃったといいます。絵がもしそうだとして、絵の中から言葉に翻訳して抽出する文学というのも可能ではないかな、と思うのです。画家とちがう語法で掬い取るのです。

自らも取り組みたい誘惑に駆られる方法でもありました。

(2004/10/15/Fri)


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