たしかに人生は「がらくた」で溢れている。
自分にとって、どんなに大切なモノであっても、 他人から見れば何の「ねうち」もない、というものはたくさんあるし、 モノばかりではなく、ヒトも記憶も思い出も、 自分以外の誰かにとって、何かの役に立つわけではない。

 そしてまた、「恋愛」というものも。 「恋」の輝きは、永遠ではない。 一秒後にはもう古びてしまうような、ときめきや切なさ、愛しさは、 恋する者にとってだけ価値のあるもので、他人には何の意味もない。 「瓦落多(がらくた)」というものが、 「他人にとって値打ちのない古道具」を指すのなら、 たちまち記憶や思い出に姿を変えてしまう「恋愛」こそ、 「がらくた」であるのかもしれない。

 この小説に出てくる人々は、それぞれに、そんな「がらくた」を抱えている。 夫に愛され続けたいがために、旅先で他の男と寝たりする、 45歳の柊子(しゅうこ)。 亡き夫と暮らした家にあった品々を、狭いマンションの部屋に、 『見たこともない混乱ぶりと、見たこともない秩序』で並べて暮らす、 柊子の母親である桐子。

この母娘と旅先で知り合ったミミは、まだ15歳の帰国子女だけれど、 既に離婚して別々に暮らしている自分の母親と父親を、 「恋愛体質」だと言いきるような、少し生意気で、でも魅力的な少女だ。 そしてまた柊子の夫である原の「恋愛体質」は尋常ではなく、 妻が他の男と寝ることを望み、自らも妻以外の女と容易く寝てしまう。

よくよく考えれば、誰もが尋常ではない。 他人から見れば、「気が触れている」ようにさえ見えるだろう。 が、不思議なことに、この小説を読んでいると、そうは思えない。 それぞれに、きちんと恋をしている。 そんなふうに思ってしまう。 ひとつひとつの行動に、他ならぬ理由(わけ)があり、 誰もが背筋を伸ばして「恋愛」に対峙している。 非難されるようなことは何ひとつない、とでもいうように。

 たぶんそれは、この小説がとても丁寧に描かれているからだ。 元より江國香織は、細部をおろそかにしない作家ではあるけれど、 この物語においては、その丁寧さに磨きがかかっている。 今までの江國作品は、 その細部によって描き出される「空気感」のようなものに特徴があって、 その柔らかな肌触りが心地好かった。 でも、この小説は少し違う。

何からも逃げることなく、目を逸らさずに書かれた、 手抜かりのない文章によって、 ひとりひとりの輪郭がくっきりと際だっている。 微妙なバランスで保たれている恋愛の、切迫感のようなものが、 密かに張り巡らされている。 だから江國ファンであっても、この作品に戸惑う人は多いかもしれない。 好き嫌いが分かれるかも。 でも、たぶん、それでいいのだ。 他人にとって値打ちがあろうとなかろうと、 あたしにとっては何よりも大切で、どうしたって手放せるはずもない。 この小説は、 そんな「がらくた」の最たるものである「恋愛」を描いているのだから。

 物語の誰かになって、尋常ではないことを尋常にしてしまえるか、 それとも「他人」の目となって、ただ「がらくた」を眺めるか。 この物語をどう思うかは、あなたの「恋愛体質」次第なのだ。