松竹の社長・城戸四郎に「小津は2人いらない」と言われたという成瀬巳喜男は、
弱冠15歳で松竹蒲田撮影所に小道具係として入り、24歳で監督に昇進、
以降、63歳で亡くなるまで89本もの映画を撮ったという。
“女性映画の名手”とも謳われた監督は、
今やメロドラマの元祖とも言われているようだけど。
でも、昨今のメロドラマとはわけがちがう。
『めし』の中で、
夫である初之輔(上原謙)と、その姪・里子(島崎雪子)と共に
大阪見物に出かけることになった三千代(原節子)が、
唐突に「行くのをやめる」と言い出す場面がある。
縁談を断って東京から家出してきた里子は、
何でも自分の思い通りになると思っているようなお嬢さんで、
出かける支度をする初之輔に対しても、甘えるように
「あたし本当は初之輔さんみたいな人が好きなの」とまとわりつく。
そう言われて、満更でもなさそうな初之輔。
そして台所で朝ご飯の後かたづけをする三千代に早く出かける支度をしろと促す。
その時、里子が初之輔の胸元を見て言うのだ。
あら、ずいぶんヨレヨレなネクタイね、と。
その直後、三千代は言う。「あたし、行くのよすわ」
薄く微笑んで、「ふたりで行ってらっしゃいよ」と。
夫と里子の甘えたような会話が面白くないというのも、もちろんある。
けれど、三千代の琴線に触れたのは、きっと「ネクタイ」だ。
日々お金の心配をし、なんとかやりくりをして、夫にご飯を作り……。
そういう夫婦の暮らしを守るためにだけ生きているような三千代の胸に、
夫のネクタイを嗤う里子のコトバは、棘のように刺さったにちがいない。
妻として精一杯やっているという「プライド」や、
こんな人生でいいのかという気持を抑え込んで
耐えてきた女としての「揺らぎ」
悪気のない里子のコトバ(悪気がないからこそよけいに)は、
その両方を、的確に突っついたヒトコトだった。
そこで怒りだすのではなく、笑って見せたのは、
三千代がかろうじてプライドを保とうとしたからだろう。
女として、この三千代の気持はよく分かる。
たとえ自分にそんな経験がなくたって、唇をかむほどに、よく分かる。
ヒトの気持は一定ではない。
2÷2が割り切れなかったり、白か黒かなんて決められなかったりする。
成瀬巳喜男は、その決着のつかないキモチの揺れを見事に描きだす。
何気なく、さりげなく、決して大仰でなく。
日常の中のひとこまや、ひとことで、静かに伝える。
だからこそ、見る者は引きこまれていく。
その人物と同じ目線になって、
そこにある日常を、人々を見つめることができる。
そういえば、成瀬映画には文芸作品を原作にしたものが多い。
『めし』の原作は林芙美子、監修が川端康成
『放浪記』はもちろんだけど、他にも林芙美子原作のものは、
『稲妻』、『妻』、『晩菊』、『浮雲』とたくさんある。
川端康成原作のものは、『舞姫』、『山の音』、
泉鏡花の『歌行燈』
室生犀星原作の『あにいもうと』、『杏っ子』
石坂洋次郎の『まごころ』、『石中先生行状記』、『くちづけ』
放浪記も山の音も、元となっている小説は、すぐれた文芸作品だ。
良い小説だから、映画にしたい、映像で描きたい。
そういうことだったのだろう。
その原作の中でうねり粟立つヒトの感情を、
こまやかに描くことのできる成瀬だからこそ、
「文芸作品」がよりいっそういきいきとしてくる。
映像としての価値もあがる。
このころの「原作」と今の「原作」は、どうしてこんなにも違うのだろう。
これは映画化したら話題になって本も売れるだろう、とか、
小説を読むのは面倒だから、映像で見たほうがいいじゃん、とか、
今の時代のそんな思惑で選ばれる「原作」は、果たして原作といえるのか。
それは「原案」でしかないのではないだろうか。
「原作」のある「映画」というのは、
文学的にも映像的にも評価されるに値するものであってほしい。
そんなことを、ついつい思ってしまうあたしは、
やっぱり100年くらい前に生まれたほうがよかったのかも。
ね。
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「めし」
監督: 成瀬巳喜男
出演: 上原謙, 原節子, その他
DVD (2005/07/22)東宝 価格: ¥4,725 (税込)