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期せずして、というか、たまたま偶然というか、あるいは必然なのか。
同じ時期に2冊の詩集が手もとに届いた。
どちらもWEBで作品を発表されている詩人の作品集である。

西原正作品集「音函」
たけだたもつ「こっそりとショルダー・クロー」

日にちを前後して届いた2冊の詩集。
だからと言って、2冊を比べて書こうなどということではない。
だいいち、詩を比べることなんてできっこない。
しかも、このおふたかたの作品は全く異なるカラーを持っている。
正反対とでもいうような。
いや、そうだろうか。
少なくとも、ひとつだけは共通するものがある。
それは、それぞれがそれぞれにしか書けない世界を持っている、ということ。



西原さんの「音函」のことは、
以前にもブログで紹介した通り、
去年の4月、ネオブックから出版された「光函」に続いての作品集。
『「音函」は「光函」を引き継ぐように詩「冬の光」という
 作品から始まります。そして、私たちの人生に現われる様々な
「音」をテーマに短編小説を書きました。』
あとがきにそう書かれている通り、ここに収められているのは、
詩と短編。
詩はどれも「婦人公論」フォーラム詩で入選あるいは佳作となった作品ばかり。
あたしも敬愛する詩人、井坂洋子さんによって選ばれた詩たち。

西原さんの詩を読むと、あたしはいつもそこに視線を感じる。
まっすぐに、じっと見つめるまなざし。
表に現われているものだけでなく、
その奥にある何かを見極める画家のような鋭い視線。
木片から何かを生み出そうとするかのような、厳かなまなざし。
だが、そうやって生まれてきた言葉は、決して冷たくない。
哀しみの詩であっても、その底には暖かな灯がある。
静かな愛情のようなもの。

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どの詩も良いけれど、あたしはこの「散髪」が好きだ。
特に書いてはいないのに、ここにいる「ふたり」が見えてくる。
そのふたりを取り巻く風景と、空気が。
人と人のぬくもり、平穏であることの幸福、美しさ。
そういうものが、まざまざと見えてくる。感じることができる。
こんなに少ない言葉で、どうしてその全てを表わすことができるのか。
つい長々と文章を繋ぐあたしにとっては、驚異とさえ思えるほどだ。

言葉に潜む「静かな愛情」というものは、短編小説にも感じることで、
そのせいだろうか、どの小説も読後感がすごく良い。
それこそ、あたたかな澄んだ「光」を感じるようなラスト。
しかもそれがあざとくない。
自然に笑みが浮んでしまうような終わり方なのだ。
(『魚子薔薇』のラストは秀逸。とにかく奈々子が可愛くて愛おしい)
そして又、それぞれの「人生に現われる音」が面白い。
ここで種明かしするのはもったいないので、あえて書かずにおくけれど。
普通、小説のモチーフに使う「音」といえば、
思い浮かべるのは、台所の音とか、車の音、電話の音、等々など……。
でもここにある音は、どれもちょっと違う。
その人にとって特別な音。
人生を左右することになるかもしれない、大切な音なのだ。
その大切な音が、静かに聞こえてくる。
言葉のすきまから、胸の奥に響いてくる。
まるで詩のように。
そう。短編小説であっても、やはりこれは詩なのだ、と思う。
詩人の書く小説の奥底には、やはり詩が潜んでいるものなのだ、と。
そしてそのことを、あたしはとても羨ましく思ったのだった。



WEBの詩サイトでは有名な「poenique」の
「第一次べすぽえ。」受賞者であるたもつさんは、
ネットでもファンの多い詩人ではないだろうか。
あたしもたもつさんのブログ「こっそりと詩」を、
以前から「こっそり」と愛読させて頂いていた。
たもつさんの詩は、どこか軽妙で、
ふっと肩の力を抜けさせるものがある。
シゴトから疲れて帰ってきて夜更けにPCを開いて、
たもつさんの詩を読んでは、くすっと笑ったり、肯いてみたり、
嬉しくなったり、切なくなったり。
そんなヒトも多いのではないだろうか。

そんなたもつさんの詩は、時に想像もできない飛び方をする。
まさに「想定外」の言葉の飛躍。想像の飛躍。
思わずツッコミを入れたくなるような、
その裏切られ方がなぜだかとても心地いいのだ。
ちくしょー、そうくるか、と舌打ちしながら喜んでしまう。
だが、そのコトバひとつひとつをつぶさに見つめていると、
それがちゃんとたもつさんのカラダの中から生まれてきたものだ、
ということを強く感じる。
どんなに飛躍した言葉でも嘘くさくないのはそのせいだ。
しかも、これしかないという言葉が、
ここにあってこそ、という場所に置かれている。
だからこそ独特の軽妙さが生まれてくる。
決して「軽々しく」ならない軽妙さ。

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炊飯器の中からほっかほかの手紙。
これを読んだだけで、思わずくすりと笑ってしまうけれど、
そこで油断してはいけない。
『うっすら黒』いご飯(食べるか、それを)の『インクの味』
『ぐにゃり』とする手紙(だったもの)の食感。
言葉に書かれてはないけれど、なんだか溜息の気配がただよっている。
その気配の通り、主人公は後悔する。
「置き場を考えるべきだった」と。
このとぼけ具合が独特の味を出しているのだけれど、
そしてそこでくすっと笑ってしまうのだけれど、
またまたここで油断してはならない。
そしてラストにて、ついに破片は捨てられる。
なんだか哀しい。とたんに悲しい。
何よりも哀しいのは、その『ご飯を全部食べた』ことである。
そのことに、ヤラレタ、と思うのだ。

そういえば、あたしは今「主人公は」と書いたけれど、
それは、たもつさんの詩がどこか小説のように思えるからだ。
どの詩にも「物語」が潜んでいる。
言葉に背景があって、登場する人物にも背景を感じるのだ。
『上にもまいりません/下にもまいりません』という、
エレベーターガールである『妻』と、
『いいんだ、どこにも行かなくて』という『僕』
(『世界エレベーター』)
この夫婦の歩いてきた道、関係、それぞれの履歴、性格。
そういったものがすべて背後にきちんとあって、そしてここにいる。
そういう詩。
詩の中に生きている誰もがどこかおかしくて、どこか哀しい。
ヒトは誰しもが孤独で、所詮生まれるのも死ぬのもひとりきりで、
だからこそ、人恋しくて、人懐こくて。
そんな人々を、そして自分を、彼は静かに見つめている。
その孤独を眺めている。
透明人間みたいに、ひっそりと。
時に、やれやれ、なんて呟きながら。
詩を読みながら思わず、
たもつさんってそんなヒトなのかなぁ、と想像してみたりする。
ヒトが好きなんだろうな、とも。



期せずして続けて読んだ、この2冊の詩集。
西原さんの、静謐な詩。そして詩のような物語。
たもつさんの、飛躍する言葉、物語のような詩。
そのどちらもが、それぞれにしか描けない世界だ。
「こんな感じ」という雰囲気だけで書かれているものではなく、
きちんと自分のからだの中から生み出したもの。
その独特の世界を言葉で築き上げるとき、
きっと詩人は、
怖いほど真剣なまなざしをしているのではないだろうか。
真摯で、冷静なまなざし。
自分、他者、人間というもの。そして言葉を、
愛を持ってまっすぐに見ている。
そんな強くて優しい瞳をこの詩集の中に見たような気がした。

WEBで発表された作品が、こんなに良質の本になる。
WEBからだって、こんなにちゃんとした文芸作品が生まれるんだ。
そのことがとても嬉しかった。
こういう本がどんどん増えていってほしいと強く思った。

こんなに優れた詩集を同時期に手にとることができたなんて、
すごく幸せなことでした。

おふたりに心からの感謝を。



西原正さんのサイト
「西原正WebSite」
http://www2.ocn.ne.jp/~waltz/

たけだたもつさんのサイト
「こっそりと詩」
http://blog.drecom.jp/kossori/



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おふたりともWEBで作品を発表されているけれど、
それぞれの作品を「紙の本」で、
しかも「タテガキ」で読む、というのは、また違った味わいがある。
いや、味わいがより一層深くなる。
世界に奥行きが出て、ぐんと広がるような気がする。
なので、ひとりでも多くの方にその良さを感じて頂きたくて、
そして実際に本を手にして頂きたくて、
あえて詩を引用させて頂きました。
こころよく許してくださったおふたりに、さらなる感謝を。