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恋に恋する思春期の頃、ヒトは誰でも詩人だったことがあるのではないだろうか。
高校生の私もやはり例外ではなかった。
退屈な授業中には、そっと取りだした雑記帳に詩のようなものを書き綴り、
休み時間にはひとり密かに図書室に行き、詩集を借りて読んでいた。
だがある時、その図書室の詩の棚に見慣れない本が紛れ込んでいた。
手にとってみればエッセイ集らしい。
「誰か故郷を想はざる」
作者は寺山修司。

それまで彼の詩は好きでよく読んでいたが、詩集以外の本を読んだことはなかった。
それなのに表紙を開いて数行読んだとたん、私はその文章に引きこまれ、
薄暗い図書室に並んだ机の軋む椅子に座り込み、急くような想いで読みはじめた。
が、その中のある一編を読んだとき、
頁を捲る私の指は、ふいに止まってしまったのだった。

ベースキャンプで働く母と別れ、
青森の祖父夫婦に引き取られることになった中学一年の寺山修司は、
駅前に流れていた「悲しき口笛」を聞きながら、一人で古間木の改札を通る。
その改札口の向うには見送る母の姿がある。

『見送りに来た母が、私を改札口から送り出したところで、
くわえていた煙草を捨てると、その煙草についていた口紅が私の目にとまった。』
『母は、そのときにはまだ三十二歳だったから、今の私と同じ年である。
だが、母はすでにやさしく立っている廃墟であった。首に真綿を巻き、ドテラを着て
真赤な口紅で唇を彩り、ポンと肩を小突かれるとそのまま崩れてしまいそうに弱々しく、
父に死なれたあとの余生を支えるために、さみしく笑いなどをうかべながら、
私に手を振っていた。』

このくだりを目で追いながら、私はからだが浮きあがるのを感じていた。
何かに連れ去られるようにして、いつの間にか私は古間木の駅に立っていた。
目の前には、少し斜に構えた、それでも弱々しい笑みを浮かべた女がいて、
その足もとには真赤な口紅のついた吸い殻が、ぽつんとさみしく落ちていた。

その時私は初めて、文字として書かれた「言葉」の力をからだで感じたのだった。
映画を観るよりもテレビを見るよりももっと鮮やかに、
その場の空気や匂いまでをも甦らせることのできる「言葉」の力に打ちのめされていた。
一気に時空を越えてしまえる「文章」とはいったい何なのだと驚愕し、
まるで呪いをかけられたかのように、呆然としたまま動けなかった。

子どもの頃病弱だった私にとって、本はまるで幼なじみのように親しい存在だった。
その本に、衝撃を受け打ちのめされるなんて思いもしなかった。
この世にはまだまだ私の知らない本がたくさんある、
本の中には未知の世界があるのだと教えてくれたこの一冊のおかげで、
私は本の虫になり、言葉の虜になったのだった。


今もときおり本棚の奥から取りだして、この本をぱらぱらと捲ってみる。
そしてそのたびに思うのだ。

寺山修司の言葉には魔力がある、と。

 
 
 
 

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『誰か故郷を想はざる ―自叙伝らしくなく―』
寺山 修司/角川書店/1973年/441円