目の前には、赤い小花が散ったままごとのような茶碗がひとつ。
白く艶やかな飯粒がふんわりと盛られ、
か細い湯気が静かに立ちのぼっている。
座卓の前に、ちょこんと座っている私は、やっと三歳になった頃だろうか。
他にも皿が並んでいたのかもしれないが、私の目が捉えていたのは、
ご飯茶碗と、プラスティックの桃色の箸、そしてガラスの醤油差し、
それだけだった。

木の玉を数珠のように連ねた暖簾の向こうには小さな台所がある。
簡素なガス台の前で、鋼色のお玉で鍋を掻きまわしながら、
母が、さっきからひとり喋り続けている。
普段は物静かな母の、聞いたこともないような、甲高いうわずった声。
雪平鍋に向かって言葉を放り込む母の白い頬は、
よりいっそう青白く透き通っていく。
六畳間の隅に置かれたテレビの前に座る父は、
時折強い口調で何か言い返しているが、ずっと後ろ姿のままだ。
テレビは、ちらちらと蒼い光を放っている。
ボリュームを落としてあるのか、テレビの音は聞こえてこない。
私の隣では、まだ年若く美しい祖母が、
狭い部屋の漆喰の壁を見据えたまま、ふたりの話しを聞いている。

ご飯茶碗から、
だんだんと白い糸のような湯気が消えていくのを見つめていた私は、
突然何を想ったのか、つと醤油差しに手を伸ばした。
そっと手前に引き寄せて、ご飯に醤油をかける。
ぽつんぽつんと落ちる醤油が、真っ白い飯粒を、まだらに染め始める。
ぽとぽとと滴るしずくを吸い込んで、茶碗の中に黒い小山が出来上がる。
さらに、とくとくと醤油差しを傾ける。
黒い醤油の海に米粒が泳ぎだした時、
隣で、ふと視線を落とした祖母の、あっと息をのむ気配がした。
弾かれたように、大声で私の名を叫ぶ祖母。
その声に驚き、台所から駆け出してきた母と、振り向いた父。
醤油差しを取りあげられ、茶碗の中を覗いて騒ぐ大人達の中で、
私はただ、ぼうっと座っていた。

私は何をしたかったのだろう。
父と母の言い争う張りつめた空気を破りたかったのだろうか。
自分が忘れられた存在になることを怖れ、大人達の気を惹こうとしたのか。
それとも、今なら何をしても怒られまいという、
悪戯心にすぎなかったのだろうか。

幼い頃の遠い記憶を手繰っていくと、いつもこの場面が、
心の中に映像として再生される。
だが、妙にはっきりとした映像の中、
テレビの前で振り向いた父の顔には、目も鼻も口もない。
ブラウン管の蒼い光に塗りつぶされた顔が、
こちらを向いているだけである。

あの一年後、父は、母と私の生活から姿を消した。