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慌ただしく動きまわる母と運送屋のおじさん達の足もとをすり抜けて、
わたしは開け放した硝子戸の前に立った。
小さな庭の正面に向かいの家が見える。
高い生け垣の向こうを鬱蒼と埋めつくす木々。
暗い林の中にひっそりと隠れるように建っている木造の二階屋。
壁を蔦の葉が這いつたい、
尖った屋根は、重い曇り空に突き刺さりそうにそびえ立っている。
大きな古い屋敷に圧倒されたわたしは、部屋の中に走りこんで、
段ボール箱を抱えた母の腰にしがみついた。

母とふたり、世田ヶ谷の外れに建つその家に引っ越したのは、
わたしが四歳の時だった。
熱を出して寝込むことの多かったわたしは、
新居に移り、幼稚園に通い始めても、
週の半分は休んで家に籠もっているような子どもだった。
小さな平屋の六畳二間は、それぞれ表と裏の庭に面している。
表側の部屋には、硝子戸に沿って板張りの廊下が伸びていた。
わたしは、その廊下いっぱいにおもちゃや絵本を広げ、
何時間でもひとりで遊んでいた。
顔をあげて外を見ると、絵本の中に描かれている古い屋敷と
向かいの家が重なって映る。
雨の中で煙っている家は魔女の栖(すみか)、
陽射しを受けて木漏れ日が揺れる日には、妖精の森の一軒家。
そのたびに、あの家の中ではどんな人達が暮らしているのだろうかと、
想いを巡らせてみたりした。

いつものように幼稚園を休んだ日の昼下がり。
風邪もほとんど回復していたわたしは、母にねだって庭に出た。
日溜まりの中にしゃがみこんで、雑草にとまるシジミ蝶を捕まえたり、
蟻の群にビスケットの残り滓(かす)を分け与えたりしていた。

ふと気付くと、日溜まりに、小さな影が落ちている。
顔を上げたわたしのすぐ脇に、色の白い小さな女の子が立っていた。
驚いて立ち上がったが、言葉が出てこない。
外に出て人と交わることの少ないわたしは、極端な人見知りだった。
自分から話しかける勇気などあるはずもない。
女の子も、同じように口をつむったまま、じっとわたしを見ている。
やがて、くるりとスカートを翻して垣根を潜ると、細い足で駆け出して、
向かいの家の生け垣の隙間に、吸い込まれるように消えていった。

その日から、女の子は時々姿を見せるようになった。
その子の存在に気づいた母が、わたしに変わって話しかけると、
彼女は言葉少なに返事をする。
そんなやり取りが幾日か続いたあと、一歳年下のゆかりちゃんは、
わたしにとって家に遊びに来てくれる初めての友だちとなった。
ゆかりちゃんは、居るか居ないか分からないほどおとなしい子だった。
手鞠模様の小箱から着せ替え人形を取り出すと、
もくもくとドレスを着せたり脱がせたりしている。
カラーボックスに並ぶ絵本を渡せば、
ゆっくりゆっくりと一頁ずつ捲っていく。
そんなゆかりちゃんと向かい合い、わたしも同じようにして遊んでいた。
表から覗けば裏庭まで見通せるような狭い家で、
鏡の中の自分と遊ぶように、ひとり遊びをしている女の子がふたり。
和服の仕立て仕事をしている母の、絹を捌(さば)く音が、
時折、しゅるしゅると響くだけの奇妙な時間だった。
それでも、そのしんと静まった時の中で、わたしは、安らかに楽しかった。

昼過ぎに来て、三時のおやつの時間になると、ゆかりちゃんは家に帰っていく。
毎日のように一緒にいたのに、わたしが向かいの家に招かれたことは一度もなかった。
それどころか、あの大きな古い家に、ゆかりちゃんの他に誰が住んでいたのかさえも、
はっきりとは分からないままだった。
あの家の中で、ゆかりちゃんは、どんな暮らしをしているのだろう。
ゆかりちゃんが帰ったあと、いつもそう思いながら、向かいの家を眺めていた。

小学校にあがると、人見知りのわたしにも、ひとり、ふたりと友だちができた。
誘われて、外で遊ぶことが増えるにつれ、風邪で寝つく回数も減っていく。
それと共に、ゆかりちゃんはしだいに姿を見せなくなっていた。
違う学校に通っていたのか、校内で会う事も、道で擦れちがうこともない。
たくさんの新しい友だちを得たわたしは、少しずつ、
ゆかりちゃんの事を忘れはじめていた。

十歳の誕生日を迎える夏の初め、郊外の家に移ることになった。
荷物を運び出した小さな家はやけにがらんとしていた。
廊下に立って、硝子戸越しに外を見ると、
向かいの家の生け垣が、意外なほどに低く思える。
ぼんやりと向かいの家を見ているわたしに、
母が、行くわよ、と声を掛けた。
「ねぇ、ゆかりちゃんっていう女の子がいたよね」
母は、呆れたように笑って言った。
「とうに、引っ越していったじゃない」

ゆかりちゃんも、今ではきっと、
大勢の友だちと笑顔で駆けまわっているのだろう。
何も告げずに去っていった彼女は、
幼い頃の内気な自分をあの家に置いていきたかったのかもしれない。
それでも、いつの日か、それぞれの記憶の小箱をひらいたとき、
そこには引っ込み思案で臆病な二人の小さな女の子が、
ひっそりと向かいあっているにちがいない。

いるはずのないゆかりちゃんに向かって小さく手を振ってみる。
ぼんやりと硝子に映ったわたしが、向かいの家に重なって、
小さく手を振り返していた。