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「盥」と書いて、「たらい」と読む。
たらい。

送られてきた小冊子をぱらぱらと見ていたら、
「夏の宵、行水の音」というコラムがあった。
そこにこの字があったのだった。
「盥」
なんて、そのまんまの字なんだろう。
小さなポイントで印刷されたこの字をまじまじと見つめて、
思わずそう思ってしまった。

辞書で見てみると、その思いはいっそう強くなった。
この字の水という字の両側は「両手」を表わすという。
「両手」+「水」+「器」=たらい
もともとは、手を洗うのに使う器を言ったのだとか。
なので「たらい」の他に「てあらう」とも読む。
ぱっと見ると、こんな字は読めても書けない、
と思いがちだけど、
「両手を水で洗う皿」と覚えれば書けそうな気もする。


たしかに子どもの頃、家には盥があった。
盥に洗濯板をつっこんで、
大きな石けんでごしごしと洗っていた母の姿を
おぼろげに憶えているような気がする。
でも、さすがにその盥で行水した記憶はない。
もしかしたら赤ん坊の頃は、
それで行水していたのかもしれないけれど。

行水といって思い出すのは、プールだ。
小さな丸いビニールのプール。
今日は暑くなりそうだという夏の日の朝。
プールをせがむと、
母がふうふう言いながら、ビニールのプールを膨らます。
あたしはひとりっ子だったので、
それはほんとうに小さなプールで、
空気ポンプなど使わなくても、十分膨らますことができたのだ。
それを小さな庭の真ん中に置くと、今度は風呂場で水を汲む。
銀色のバケツに、七分目ほど。
あまりにたっぷりと汲んでしまうと、
庭まで行くあいだに、たぷたぷ揺れてこぼれてしまう。
そうして風呂場と庭を、何往復か。

プールは水を湛えたまま、少しのあいだ陽射しをあびる。
容赦ない夏の光に、小さなプールの水はすぐさま温くなってくる。
母が手をさしこんで、「もういいわよ」と言う頃には、
水はとろりと生温く、日なたの匂いが沁みている。
形だけでもと水着――紺色の白の水玉――を着たあたしは、
そろりと足をつっこんでから、しずしずとしゃがみ込む。
膝下までの水が、ももを濡らし、おなかを濡らし、
胸を濡らしてゆらゆら揺れる。
ブリキの金魚の如雨露や、ぴょんと跳ねるカエルのおもちゃ、
プラスチックのバケツやひしゃくをプールの中にぷかぷか浮かべ、
ひとりちゃぷちゃぷと遊んでいた。

ほんのときたま、
向かいの家――大きなお屋敷だった――の女の子や、
泊まりに来ていた従兄と一緒に、
プール遊びをすることもあった。
嬉しくてはしゃぎながらも、
自分と同じような、それでいて違うヒトのからだが不思議だった。
水に冷えた肌と肌が触れ合うと、
はじめはひんやりと冷たいのに、
ぴたりとくっついているうちに、あったかくなる。
柔らかくて暖かくて気持ちがいいのだけど、
ヒトリアソビに慣れているあたしは、
その感触が気になってしかたない。
それでつい、プールから出て、
傍らに敷いたゴザの上で、ままごとなんかを始めてしまう。

そしてその子が帰ったあと、
すっかり水が減ってしまったぬるま湯のようなプールに入って、
手足を伸ばし、ゆらゆらと揺れる水の感触を楽しんでいた。
なかば空気が抜けて、
ふにゃふにゃと柔らかなプールの縁に頭をのせ、
もくもくと白い入道雲を見あげていた。


泳ぐことなんかできやしない、小さな丸い水の器。
幼いあたしにとって、
あれはプール以外のなにものでもなかったが、
あのひとりきりの水遊びは、
お風呂遊びとかわらないものだった。
プールと言いながら、あれは行水だったのだと、今にして思う。

夏の陽射しに熱く柔らかくなったビニールの匂い、
ゆらゆら光る水を映したプールの底のドナルドダック、
ふやけてしわしわになった指の指紋、
とろりと温い柔らかな水。
それが、あたしにとっての行水の記憶なのだった。