tuyayakana.jpg



  桜貝のように、ほのかに輝くサテンの靴。
  右と左の柔らかなリボンをひとつに合わせ、
  きれいな蝶々結びにして、生成の袋にそっとしまった。
  あの小さなトウシューズは、何処へいってしまったのだろう。


幼稚園に入園した年の夏の初め、
わたしは母と、畑や野原に挟まれた一本道を歩いていた。
「ここよ」と言う母の声に足をとめる。
木造の二階家の庭に続く真っ白なアーチ型の木の門。
開け放たれた扉から、白く塗られた藤棚が芝生に影を落としているのが見える。
母に手を引かれて門をくぐったわたしは、
精いっぱい顎を上げ、天を仰いだ。
緑の葉の合間から、薄紫の花の塊が葡萄のように垂れている。
木漏れ日が、風と共にちらちらと揺れると、
房の中の小花ひとつひとつが、蝶のように羽ばたいた。

「こんにちわ」
澄んだ声が、降ってきた。
声の方向に顔を向けると、黒い髪を束ねた女の人が、
一段高い所からわたしを見おろしていた。
切れ長の瞳の目尻に薄く皺を寄せて笑っている。
白いTシャツの下にピンク色のレオタード、白いタイツ、
光を含んだような薄桃色の靴。
「先生よ。ご挨拶は?」
母がわたしの背中に手をあてて、前に押しだす。
硝子戸を開け放した板張りの広い部屋が、目の前に現れる。
壁に張り巡らされた鏡に、お辞儀をしながら笑う母と、
目を丸くしたわたしの顔が映っていた。

床板が滑らかに輝く部屋には、十人ほどの女の子達が
思い思いの格好で散らばっていた。
白いレオタードに白いタイツ。
その足もとは、爪先にゴムを貼った白い布のバレエシューズだった。
わたしは、先生の履いている艶やかなトウシューズに目を落とし、じっとみつめた。
「すぐにこれが履けるようになるわ」
軽やかな声が、歌うように返ってきて、
顔をあげたわたしは、はにかみながら小さくうなずいた。

少しでも丈夫になればという母の願いから、
週に一度白い門をくぐることになったわたしは、
すぐに、バレエの稽古が好きになった。
柔らかな音楽、リズムを打つ手拍子、手本を示す先生の細い手足、
その向こうで光り輝く緑濃い藤棚と、風に揺れる白い門扉。
稽古場にいる間、わたしの気を惹くものは、そういったものだけだった。
人見知りの激しかったわたしには珍しく、
周囲の視線や言葉に乱されることのない、心静かな時間だった。
踊っている先生の姿は、優雅に風に乗る鴎のようだ。
背筋をすっと伸ばし顎をあげ、長い腕を伸びやかに広げる。
まっすぐに線を描く脚の先で、トウシューズが風を起こす。
自分のバレエシューズが床を擦(こす)る、きゅっという音を聴きながら、
いつかあのトウシューズを履くのだと、それだけを夢見て踊っていた。

木枯らしが舞い始めた年の瀬、都心のホールで発表会が行われた。
「上手に踊れた人は、上のクラスに進めます」
発表会の前に、先生が言った。
上のクラスに進めば、トウシューズが履ける。
幼いわたし達の曲目は、〈カモメの水兵さん〉だった。
腰の横に張り出した白いレースのチュチュに、
水色のセーラーカラーを縫い付けたレオタード。
アイラインで縁取られた目は、いつもの小さな目の二倍ほどに黒々と描かれ、
唇は真っ赤に染まっていた。
鏡に映った自分の顔を見ながら、何処かくすぐったい気分で、
いつまでもくすくすと笑っていた。

リハーサルが始まった。
舞台の上は、空の太陽を借りてきたように明るかった。
光を浴びて踊ることは、意外にも気持ちのいいものだった。
戸惑う子ども達の中で、ひとりのびのびと手足を伸ばし踊っていた。
先生はわたしの名を呼んで、大きな笑顔で誉めてくれた。
わたしは、密かに、胸の中に浮かぶトウシューズを抱きしめた。

発表会の開演まぎわ、伯母や従兄が、花束を持って楽屋を訪ねてきた。
「頑張ってね」と声を掛けられるたび、
手足に小さな錘(おもり)がぶら下がっていくような気がしていた。
瞬く間に出番が来た。
舞台は白く発光し、客席は夜の闇より暗かった。
その闇の中に、何百と、蠢(うごめ)く人の気配がする。
リハーサルとは違う雰囲気に圧倒されたまま、
流れる音楽に操られるように、無意識に手足を動かしていた。
曲の半ばを過ぎた頃、ようやく、わたしは舞台の上で踊る自分を意識した。
そのとたん、頭の中に整列していたステップが、弾けるように散乱した。
一列に並んで手を組んで、左右の足を交互にあげる。
あげる足は、右から? それとも、左? 
音楽は軽快にテンポよく進む。
いくら考えても分からない。
分からないまま、勢いよく足をあげる。
宙を蹴ったわたしの足は、みごとに隣の子の足と交差した。
闇の底から、笑い声が立ち昇り、渦を巻いた。

年が明け、最初の稽古の日。
先生がわたしの名前を呼んだ。
進み出たわたしの前に差し出されたのは、傷ひとつないトウシューズだった。
どうせ、上のクラスには進めない。
発表会での失敗に心を小さくすぼめていたわたしは、
信じられない想いで、薄桃色のそれをみつめる。
先生が、促すようにもう一度名前を呼ぶ。
わたしは、おずおずと両腕を伸ばし、
手のひらでトウシューズを受けとると、そっと胸に抱きよせた。
真新しい皮の匂いがした。

履き方を教える先生の足もとを見ながら、そろりと足を滑り込ませる。
靴の中はひんやりとしていて、爪先が固く、踵は柔らかい。
靴に縫い付けられたリボンを、甲の上で交差させ、足首で結ぶ。
きゅっと締めたとたん、薄いタイツを通して、しなやかなサテンが肌に吸いつく。
ゆっくりと爪先で立ってみる。
思ったよりも優しく、トウシューズはわたしの足を支えてくれた。
一歩、二歩、三歩。
動く度に、足首に巻き付いたリボンが、ゆらゆらとなびいた。

稽古を終えて家に着くなり、すぐに又、トウシューズを履いてみた。
母に頼んで姿見を板敷きの廊下に立て掛けてもらう。
鏡の前で、スカートの裾をつまみ、左足を後ろに引いて、
発表会のために覚えたお辞儀をした。
手を大きく横に広げ、右足を軸にまわってみる。
固い爪先は板の上でなんなく廻り、わたしをくるっと正面の位置まで戻してくれた。
電灯の柔らかな光を受けて輝きながら、薄桃色の靴が足に追(つ)いてくる。
どこまでも、ぴったりと。
――わたしのトウシューズ。
夜も更けて、もう寝なさいと叱られるまで、わたしはトウシューズを履いていた。

冬枯れていた芝生の片隅に、春が爪先をそっと乗せる頃、
わたしの瞳をみつめて母が言った。
「バレエのお稽古、辞めなくちゃね」
四月から小学生になる。
バレエ教室は、小学校とは正反対の方向にあり、しかも遠い。
熱心に稽古に通ったというのに、わたしの躰は、病弱なままだった。
幼稚園の時のように休んでばかりいると、学校の授業についていくのも大変になる。
バレエで体力を消耗するより、休まずに学校に行く方が大切だと母は言う。
わたしは、母の言葉におとなしく肯いた。
不思議に未練はなかった。
巡る季節の決めごとのように、自然にそれを受け入れていた。
あの日、真っ白な門に足を踏み入れ、光を含むトウシューズに出会ったその瞬間、
幼いわたしは、生まれて初めての恋心を知ったのだ。
心の底から欲する想い。
祈りにも似た願い。
あれは、確かに恋だった。
稚(いとけな)い小さな恋は、ゆっくりと静かに成就したのだ。
最後の稽古を終えたサテンの靴は、艶やかなまま、生成の袋にしまわれた。
藤棚の間に、淡い青空が広がっていた。
小さな手にぶらさげた布袋を揺らしながら、わたしは、白い門をくぐり出た。


その光沢を確かめるように灯りに翳してみたのは、いつの頃までだったのか。
誰かを恋うことを知り、大人への道を辿り始めると、
いつしかそれは、わたしの前から姿を消していた。
失って困るものではないと思っていた。
あの真っ直ぐな想いを、なくしたことさえ忘れていた。

桜貝のように、ほのかに輝くトウシューズ。
今となっては、その行方を追うこともできない。
時折、胸の奥から取りだした艶やかな幻影を、そっと眺めてみるだけだ。