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静かな午後だった。
初夏の澄んだ陽射しを受けて、土は軟らかく乾いていた。
家の横に広がる空き地で、わたしはひとり遊んでいた。
しゃがみこんでいるわたしの背中に、水の音が零れてくる。
振り向いて、わずかに開いた台所の窓を見上げると、
一心に何かを洗っている母のうつむいた顔が、影法師のように揺れていた。
子ども達は、皆、学校や幼稚園に行っている。
大人も、昼食あとのひと休みといった時分だったのだろう。
辺りには、誰もいなかった。
空き地には、草花が群れ咲いている。
萎みかけたツユクサの花を指先でつぶし、指紋ににじむ鮮やかな青に見惚れたり、
菱形の実を結んだペンペン草を、でんでん太鼓のように振りまわし、
ささやかな音色に耳を澄ませたりして、ひとり遊びに飽くことはなかった。

紺色のジャンパースカートを着たわたしの肩には、
ビニールのバッグがぶら下がっている。
幼稚園にあがる前の小さなからだには、大きすぎるほどのバッグだった。
腕に提げると地面に引きずってしまうので、いつも肩から掛けていた。
バッグのおもてには、マーガレットに似た黄色い花のアップリケがひとつ、ふたつ。
つやつやとした白いビニールは所々ひび割れ、
亀裂には赤いクレヨンが染み込んでいたりしたが、
そのバッグはわたしのお気に入りのものだった。
花から花へと動くたびに、肩から掛けたバッグの中で、
しゃりんしゃりんと微かな音がした。
口に付いたチャックを開いてみると、中には一円玉が数え切れないほど入っている。
家の中で買い物ごっこをしていたときに、母にせがんで入れてもらった硬貨だった。
透き通った光に照らされた硬貨が、白く輝いてわたしの目を射た。

しばらく中を覗きこんでいたわたしは、
バッグの口をチャッと閉じると、勢い良く立ち上がった。
文房具屋に行こう。
ただの思いつきだった。ひとりきりで買い物に行ったことなど一度もないというのに、
たいした決断もなしに、わたしは歩き始めていた。
怖れも不安も、気負いも身構えも何もなかった。小さな胸の中には、
花模様のノートや、黄色い鉛筆や、甘い香りの消しゴムが並んでいた。

その頃住んでいた家は、住宅街の外れにあった。
こじんまりとした建て売り住宅が、ぽつぽつと建ち並び始めていたが、
まだ其処此処に野原や畑が残り、太陽に蒸された土の匂いと、
青く繁る緑の香りが光の中に満ちていた。
車も人も通らない、やけにしんとした陽射しの中を、
早くも遅くもない足取りで真っ直ぐに進んでいく。
バッグの中で触れあう薄い硬貨の音だけが、からだの中に小さく響いていた。

しばらく行くと、道の角にぽつんと雑貨屋がある。
軒下には如雨露がぶら下がり、
戸口にはビニール紐で編まれた焦げ茶色の買い物籠が積み上げてあった。
店の中には、網に入ったビー玉や折り畳まれた紙風船、
色とりどりの大きな飴玉が並べられていた。
でも、わたしが目指していたのは文房具屋だった。
開け放たれた硝子の引き戸の中を横目で見ながら、
わたしは、立ち止まることなく前に進んだ。

大通りは、突然表れた。
家からの道を二度曲がり、細い道が途切れたところに、
幹線道路は大きな川のように横たわっていた。
ひっきりなしに行き交う車が風を起こし、
細く頼りない髪を凪ぎ払うように煽っていく。
ひっそりとした空気の中を坦々と歩いてきたわたしは、
突然違う世界に放りだされたような気がした。
音が頭の上を猛烈な勢いで走っている。
だが、恐くはない。ただ、信号、信号と、口の中で呪文のように呟いていた。
信号を渡りきったところのすぐ前に、
文房具屋があることを幼いわたしは知っていた。

大通りに沿う細い歩道を右に歩くと、大きな信号機がそびえ立っていた。
足元には、幅の広い横断歩道が白く光っている。
幾人かの大人達のうしろに立ち、
陽射しのまぶしさを我慢しながら信号機を見つめた。
とろりと眠たげな青いランプが、目を醒ましたように明るくなったのを確認してから、
横断歩道の太い縞模様を見つめながら大通りを渡った。

文房具屋は、奥が住まいになっているような小さな店だった。
開いた引き戸から一歩入ると、ひんやりとした店の中は、
家の裏庭にある物置と良く似た匂いがした。
薄暗さに目が慣れず、ぼんやりと戸口で突っ立っていると、
店に続く茶の間から店主がサンダルを突っかけて下りてきた。
「お遣い?」
母よりは、ずっと年配の女性だった。
屈みこむようにしてわたしの顔を覗くと店主は言った。
「何が要るのかな」
わたしは口をつぐんだまま、ノートの並んだ棚の前に進み、しばらく立ちつくしていた。
からだを動かさず視線だけを走らせて、端から端まで眺めたあと、
その中の一冊を手に取って店主に差し出した。
水色の表紙の上で、リボンをつけた子犬が首を傾げていた。
「お金はあるの?」
母親に頼まれてお遣いに来たのではないと察したのだろう。
店主は、ノートを受け取りながら戸惑ったようにそう訊いた。
わたしは、バッグを肩から下ろし、チャックを開けてみせた。
得意気に見上げるわたしに向かって、
店主は笑みを浮かべながらも、きっぱりと言った。
「これじゃあ、買えないのよ」
バッグの中には、両手で掬いきれないほどのお金が入っている。
それなのに、買えないとはどういうことなのだろう。
腑に落ちない顔で一円玉を見つめるわたしの横にしゃがみ込んで、
店主はゆっくりと続けた。
「こんなに沢山あるから代金としては足りるんだけどね。
でも、同じ一円玉ばかりを二十枚とか三十枚使うことは出来ないの。
そういう決まりになってるの。お母さんに言って十円玉を貰ってから、又おいで」

そうなのか。そういう決まりがあるんだ。
そういう決まりなら仕方がない。
わたしは妙に納得して、バッグのチャックを閉め、肩に掛けた。
何処から来たの? ひとりで帰れるの? ほんとに大丈夫なの? 
店主の問いかけに、大きく肯いてわたしは店を出た。
ノートが買えなかったのは残念だったけれど、哀しくはなかった。
ひとりで文房具屋に来たことだけで、満足していた。
帰ったら母に教えてあげよう。
一円玉ばかりじゃ、お買い物は出来ないんだよ。

横断歩道の前に立ち、信号機を見ようと顔を上げると、
大通りの向こう側で、手を振りまわしている女の人がいた。
母だった。
白く弾けたような光の中で、泣きだしそうな顔をして叫んでいた。
そのまま、そこに、いて。そこに、いなさい。動かないで、そこにいるのよ。
笑って、大きく手を振り返すと、肩に掛けたバッグが揺すられて、
しゃりしゃりと軽やかな音を立てた。
わたしは、微笑んだままあごをあげ、青いランプが目覚めるのを待っていた。

 
 
 
 
 
 
  
 





白い小花の落ちたペンペン草には、小さな菱形の実が揺れている。根元から摘んで、でんでん太鼓のように振り回すと、実と実が触れあって微かな音がする。ぺんぺん、ぺんぺん。











まで売っている玩具の住宅街を抜けると、交通量の多い幹線道路に突き当たる。文房具屋は、その道を渡ったところにあった。
 ひとりきりで行ったことなどないのに、道は憶えていた。肩から掛けたバッグに陽射しが当たり、ビニールがふんにゃりと柔らかくなっていく。
 


は、昼下がりの陽射しの中で、既に萎みかけている。花をつまんで指先で潰すと、鮮やかな青が指紋に滲んだ。指先を草で拭って、今度は、ペンペン草の群の前に行く。すっと伸びた茎の先に、白い小花が集まったぺんぺん草。花のついた細い茎を、ちぎれないようにそっと引き下ろし、でんでん太鼓を奏でるように左右にくるくる振り廻す。たらりと垂れた花達が、互いにぶつかり合うと、微かに乾いた音がした。ぺんぺん、ぺんぺん。