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ぷくっと膨らんで浮きあがった赤い塗料。
指でつつくと、ぱりぱりと薄く剥がれ落ち、
小さな空洞の中に錆色の地肌があらわれた。
金物屋のガラス戸の前で、帽子をかぶったような円筒形のポストは、
困惑したように佇んでいた。

「おばあちゃんと、おつかいに行こうか」
駅の近くの商店街までの道のりを、手をつないでふたりで歩く。
道端に咲く草花を摘みながら、祖母は花の名前を教えてくれた。
ヒメジオン、ナズナ、オオバコ、ツユクサ。
風に舞うタンポポの綿毛を追いかけ、ブリキのごみ箱の上に眠る猫を撫で、
すれちがう子ども達の自転車を振りかえる。
なかなか前に進まない私を急かすことなく、
笑みを浮かべながらゆっくりと歩く祖母。
小柄なからだを包む着物は、落ち着いた色合いの地味な物だったが、
それでも祖母は十分に美しかった。
背筋を伸ばして咲く白い菖蒲。
凛とした風情がありながら、薄い花びらは、風の中でたおやかに揺れる。
祖母は、そんな人だった。

私がまだ乳飲み子の頃、祖母が突然家を出た。
仕事で家を空ける父と母の代わりに、私の子守をしていたのは、祖父だったという。
その祖父が病に倒れると、祖母は又、唐突に家に戻ってきた。
まだ字も読めないほど幼い私が、その理由を理解できるはずもない。
ただ、私は、美しい祖母が好きだった。
ころころと小さな鈴を震うような祖母の笑い声を聞きたくて、
いつも子犬のようにまとわりついていた。

商店街に行き着く前の人通りの少ない道に、金物屋が一軒、ぽつんと建っている。
木枠の硝子戸の前には、売り物のバケツや箒が積みあげられ、
軒下には如雨露がぶらさがって並んでいた。
店の角は、小窓の開くタバコ屋になっている。
小窓の中に人影はない。
その斜め前に、背の高い赤いポストが突っ立っている。
祖母は決まってそこで歩みを止めた。

和服の端切れで作った手提げ袋から、取り出された白い封筒。
私は、その薄い封筒を目で追いながら、大人しく待っている。
「ポイしてちょうだいな」
封筒を受けとった私は、ポストの口に手を伸ばす。
いくら背伸びをしても、私の手はポストの口まで届かない。
祖母の華奢な腕がすっと降りてきて、私は軽く抱き上げられる。
目の前に、大きな口が迫ってくる。
横広に開いた穴の向こうに、ぽっかりと深い闇がみえる。
何かがじっと潜んでいて、手を入れたとたん食いつかれそうだ。 
ポイッ! 
私は出来るだけ大きな声を上げながら、親指と人差し指で摘んだ封筒を、
放り出すように投げ入れた。
そっと道に降ろされた私は、振り向いて祖母の顔を見上げる。
静かに微笑みながら、祖母が私の頭をやわやわと撫でる。
そして束の間、ポストの口をじっと見つめる。
祖母にしか見えない闇の奥の何かを。
その空洞が、どこか別の場所に繋がっているかのようで、
私はにわかに不安になる。
あの闇に祖母が吸いこまれてしまいそうで、
私は目の前にある着物のたもとを握りしめ、くいくいと強く引っ張る。
すると祖母は、静かに息を吐き出して私の手を取り、
いつもの笑顔を取りもどしながら、ゆっくりと歩きだすのだった。

ふたりだけの時に限って行われた手紙の投函は、
幼い私にとって、密やかな儀式のようなものだった。
私は、それを誰にも話さなかった。
口止めされた覚えもないのに、何故か言ってはいけないことだと思っていた。
しっとりとした和紙の封筒の表には、
柔らかな細筆で宛名がしたためられていた。
その手紙が何処に届くのかさえ、私は尋ねなかった。

祖母が亡くなって、十年が経つ。
手紙の宛名を知る術もない。