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 ものごころついた頃から、母娘ふたりだけの正月だった。
 文句を言う者など誰もいないというのに、母は毎年きっちりと、正月を迎える準備をした。

 仕事を持っている母の年末は忙しい。仕事納めからの三日間で、大掃除と、正月のための買い出し、おせち料理の準備に追い立てられる。
 息を弾ませながら畳をから拭きし、北風に頬を赤く強ばらせながら、力をこめて窓硝子をみがく。手を休めることなく慌ただしく動きまわる母の横で、ひとりぼんやり本を読んでいるわけにもいかず、わたしは渋々ながら「何をすれば良い?」とたずねるのだった。幼い頃は「手伝っているんだか邪魔をしているんだか分からない」と自分の部屋に追いやられるばかりだったが、中学に上がる頃からは、少しずつ仕事を与えられるようになっていた。
 母がわたしに命じるのは、いつも、おせちの下拵えだった。

 煮染めに使う根菜を形良く切りそろえ、干し椎茸をもどし、前夜から水に浸しておいた黒豆を火にかける。お雑煮のために、鶏で吸い地を作る。ほうれん草をさっとゆがいて、三つ葉を水引のように結ぶ。何度か豆をつまんで煮え具合をみるうちに、大掃除を終えた母がやってきて、並んで台所に立った。

 日暮れた大晦日の台所には、砂糖と醤油の香りが満ちていた。
 つやつやと味を含んだ野菜や豆が、それぞれに彩りよくお重に並んでいく。立ち働いた疲れと度重なる味見のために、あまり空腹を感じないわたし達は、お重に入りきらなかった煮染めや、伊達巻きの切れ端を並べて、簡単に夕食を済ませてしまう。最後に台所をきれいに磨きあげると、テーブルの上にお重をかさね、お屠蘇の仕度を整える。その上に真っ新な白い布巾をかぶせると、ようやく新年を迎える準備が終わるのだった。

 いつもは自分の部屋でひとり眠るわたしも、大晦日の晩だけは、テレビのある畳の部屋に母と布団を並べて寝た。風呂で暖まったからだが冷えないうちに布団にもぐりこみ、寝ころびながら夜更けまでテレビを見ている。疲れ果てた母は、たいてい年が明ける前に寝入ってしまう。必死にまぶたをこじ開けているわたしは、ブラウン管の向こうで「おめでとう」と言い交わす人々の声を聞いてから、テレビと部屋の明かりを消した。
 カーテンの引かれた窓は、町の灯りを含んでぼんやりと明るかった。鴨居の下で袖を広げた芥子色の絣と、紺地に赤い小花を散らしたウールの着物が、手を繋いで影を落としている。枕元には、真新しい肌着が一式、きちんと揃えて置かれていた。

 元日の朝、着物を着た母とわたしは、テーブルをはさんでお屠蘇を注ぎあい、金色の杯を両手で捧げながら、新年の挨拶を静かに交わした。
 毎年そうして、わたし達は新年を迎えてきた。それ以外に新年の迎え方があることなど、考えもしなかった。

 高校二年の冬休みを迎える頃だった。
 友人達と、短い休みの計画を練っていると、誰かが「初詣に行こう」と言いだした。それも、大晦日から元旦にかけての「年越しの初詣」。男女合わせて六、七人というメンバーだった。
 だが、我が家には、夕食は必ず母と共にするという緩やかな門限があった。放課後、わたしが何をしていようと、誰と何処にいようと細かく追及などしなかった母だったが、これだけは譲らなかった。何度か門限を破ろうとしたことはあったが、いつも未遂に終わっていた。母が働いて生活を担っていることには感謝していたし、疲れて帰ってきた母が、ひとりでもそもそと食事をする姿を思うと、どうしても門限を破ることはできなかったのだ。ましてや大晦日から新年への母娘ふたりの習慣を破ることなど、とてもできそうになかった。冬休みが始まっても、わたしは大晦日の外出を言い出せないでいた。

 十二月二十八日、仕事納めの日。母はいつもより早く帰ってきた。
 ゆっくりと夕食をとりながら、年末にしなくてはならないことをふたりで数えあげた。一年の勤めを終え、ほっとした表情でお茶を飲む母の横顔を見ながら、わたしは、大晦日は家にいようと密かに自分に言い聞かせていた。

 ふたりだけの静かな夕食が済むと、母は風呂の支度を始め、わたしは洗いかごに積まれた食器を布巾で拭いて、棚に戻していた。テレビからは、年末年始の番組内容を伝える声が流れていた。大晦日の夜、初詣で賑わう神社から年越しの生中継をするという。台所に接した狭い脱衣所で、濡れた手を拭きながら母が言った。

「年越しの初詣なんて、行ったことがないわね」
 その言葉を背中で聞いたとたん、わたしの口は勝手に動きだしていた。
「みんなが、初詣に行こうかって言ってるんだけど」
 母は返事をしない。ブラウン管の中で、やけに甲高いアナウンサーの声が、初詣の人出の予想数を告げている。
「大晦日の夜出掛けて、初詣に行って、元日の朝帰ってくるの。みんなも、元旦の朝は家でお祝いをするから、夜明け頃には帰るけど。お年玉を貰えなくなると困るしね」
 わたしは洗いかごに向かったまま、テレビから流れ出る話し声に負けまいと、早口で喋り続けた。
 一緒に行くのはね、ユッコとチーちゃんと、それから……。

 女友達の名前ばかりを並べたのは、心配させまいとする配慮なのか。許しを得るための策略だったのか。頭で考えるよりも先に放ってしまった嘘だった。頬は火照るように熱いのに、脇の下が汗で冷たかった。
「着物、着ていくの?」
 要領を得ないわたしの話をさえぎって、母が言った。
 え?
 振り向くと、母は椅子に浅く腰掛け、テーブルに頬杖を突いて、テレビの画面を見つめていた。今聞いた母の声が、耳の奥で鐘の音のように反響して、言葉の意味を聞き取ることができなかった。
「着物。着るんなら、半襟掛けたり、草履を出したりして用意しなくちゃならないでしょ」
「……着る」
 寝ぼけたような返事をしたわたしに、母はにっと笑いかけると、「綺麗な半襟あったかしら」と呟いて立ち上がり、隣の部屋で和箪笥を開けた。

 大晦日のまだ陽の高いうちから、母はわたしの髪を結い始めた。
 わたしがまだ幼い頃、母は家で和裁の仕立て仕事をしていた。小さな娘をひとりきりにしないよう、家でできる仕事を選んだのだった。母が外に働きに出るようになったのは、わたしが高校に入ってからのことだった。だが、和裁をやめたあとも、母は時々分厚い一枚板の裁ち台を取り出して、反物を広げていた。そうして、わたしの成人式を待たずに、早々と振り袖を縫いあげていたのだった。

 初めて袖を通す晴れ着に、大騒ぎをして着付けを終え、すべての準備が整った頃には家を出る時刻が迫っていた。
「お腹が空いたまま帯で締めつけられてると気分が悪くなるから」
 そう言って母が小さなおにぎりを握ってくれた。お茶で流し込むようにおにぎりを頬張り、白いショールを羽織り、草履に足を突っこむ。母が鼻緒を広げておいてくれた草履は、思いのほか歩きやすかった。
「着崩れてきたら、ここに手を入れて引っぱるのよ。駅の階段では、裾を持ちあげ気味にしてね」
 玄関を出て手を振るわたしに向かって、母はいつまでも喋り続けていた。

 友人達と過ごす時間はあっと言う間に過ぎていった。往く年も来る年も笑顔と嬌声の中で弾んでいた。初詣のあと、振るまわれる甘酒で頬を染め、夜店を冷やかして歩いた。終日営業の喫茶店で喋りつづけ、気づいた時には朝の五時をまわっていた。
 店を出ると、街は蒼く染まっていた。
 点滅する信号が、車の途絶えた路に滲んでいる。ビルの狭間に置かれたポリバケツの陰に、折り重なっている闇の名残。初めてみる夜明けの景色だった。
 ふいに誰かが「朝帰りだぁ」とはしゃいだ声で言い、皆で笑った。笑いながら天を仰ぐと、立ち並ぶビルを額縁にした空が、うっすらと白く滲みはじめていた。

 母はまだ眠りの中だろうか。
 元旦にひとりきりで目覚める母を思ったら、冷たい風が、胸に沁みた。てのひらで帯をそっと抑えると、懐(ふところ)に挟んだお守りがかさりと音をたてた。初詣の神社で、母のために買ったお守りだった。
 家に帰ったら、朱いお守り袋を差し出して、「おめでとう」と言おう。
 それぞれの新しい夜明けを祝って、笑顔で言い合おう。
 白いショールに頬を埋め、ぼんやりと立ち尽くしていると、誰かがわたしの名を呼んだ。手招きをする友人達に向かって、明けていく街をゆっくりと歩きはじめた。鼻緒にあたる親指が、ほんの少し痛かった。