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「その日」はいつも気もソゾロだった。
小学校の帰り道、
いつも通りに友達とお喋りしながらタラタラ歩く。
赤いポストが立っているいつもの角で、
友人たちと手を振り合って分かれる、
と、
砂利道を蹴って駈け出していく。
母は、ちゃんと買ってきてくれただろうか。
大根やジャガイモで手一杯で、忘れてしまってたらどうしよう。
玄関に運動靴を脱ぎ捨てて、
タダイマも忘れて部屋に飛び込む。
あった。
机の上に、分厚い一冊。
束ねたゴムのあいだから付録がはみ出している。
表紙にはひらがなで、大きく「りぼん」
そう、あのマンガの月刊誌「りぼん」

中学に入り、電車通学となってからは、
学校帰り、駅前にある大きな本屋に飛び込んで、自分で買った。
山と積まれた「りぼん」の上から3番目を引き抜いて、
胸にかかえてレジに向かう。
バス停の横のタバコ屋で「ストロベリーチョコ」を買い、
バスの座席に座ると、まずはチョコをひと粒口にいれる。
指がチョコで汚れていないことを確かめてから、
つるつると光る表紙を開く。
喉の奥から鼻に抜けるいかにも人工的に甘ったるい苺の匂いと、
捲った本の頁から立ちのぼるインクの匂いが入り混ざる。
それだけでもうわたしは異世界へ飛んでいる。

家までの15分。
その間に、半分は読んでしまう。
ひとつひとつの物語に入り込み、
主人公になりきって、未知の世界を漂っている。
運転手のアナウンスも聞こえない。
だが、不思議なことに乗り過ごしたことは一度もなかった。
降りるべき停留所に着くと、夢遊病のように立ち上がり、
がたぴしと開く扉の前に立ち、ステップを下りて歩き出す。
夢の中を歩くかのように、足が軽い。
くだる坂道をするすると歩く。
ただいまと虚ろに言って鞄を置き、
手を洗い、うがいをして、おやつを持って部屋に入る。
最後の一頁まで、裏表紙の片隅まで、
すべて読み終えてしまうまで、母は声をかけなかった。
かけても無駄だと知っていたのだ。

ある日のバスの中。
頁を捲る指がとまった。
イチバン楽しみにしていた連載ものが、
わずか2頁で終わっているのだ。
わたしは慌てた。
ここでお終いなのだろうか。
いや、そんなはずはない。
こんな唐突な終わり方は絶対変だ。
これは何かのマチガイだ。
「落丁」なんていうコトバがあることさえ知らなかった。
まっすぐに本屋さんを信じていた。
本屋さんに並んでいる本はみな、
完璧な完成品なのだと信じていた。
だが、今ここにある「りぼん」は、そうじゃない。

降りるべき停留所で降り、
とぼとぼ歩きながら考える。
どうしよう。今月はあのマンガが読めないのだ。
日本全国にいる「りぼん」愛読者の中で、
あたしひとりだけが読めないのだ。
絶望的なキモチになって、
家に着いたとたん、あたしは泣いた。
母は呆れて笑いながら、
取り替えてもらえば良いじゃない、と事も無げに言った。
取り替えて……?
そんなこと考えもしなかった。
そうか、取り替えてもらえば良いんだ。
なんだ、簡単なことじゃないか。
じゃあ、行ってきまーす。
再び鞄を握って立ち上がるあたしに驚いて、母が止めた。
何も今から行かなくたって。明日にしなさいよ。
やだ。もしも売り切れちゃったらどうするの。
追いかける母の言葉を振り切って、バス停めざして坂道を上った。

勇んで本屋に飛び込んだものの、どうすれば良いのか分からない。
一度買った本を、それも半分ほど読んでしまった本を、
真っさらな本と取り替える。
そんなことができるのだろうか。
にわかに不安が沸きあがる。
レジの広いカウンターには、お姉さんやおじさんが待ちかまえている。
客が何人も順番を待っている。
あてもなく売り場を歩きまわりながら、横目でレジをうかがう。
ふっと客が途切れた隙をみて、あたしはレジに駆け寄った。
一番若いお姉さんに向かって、早口で言う。
楽しみにしていたマンガが載ってないんです。
そこのところだけ、頁が抜けてるんです。
他のところはまだ読んでません。
きれいなまんまです。
だから……、あの……
「お取り替えですね」
お姉さんはそうヒトコト言うと、
さっさと新しい本を取りに行き、袋に入れて差し出した。
ありがとうございました。
胸のボタンを押すと喋る人形みたいな声に送られて、
袋を胸に抱き歩き出す。

なんだ。
すっかり気が抜けていた。
考えてみれば、同じ本と取り替えてもらうのだから、
言い訳も説明もいらなかったんだ。
違う本と取り替えてほしいと言えば、
それはやっぱり問題だったろうけれど。
夕暮れて、街に灯りが瞬いていた。
バスに乗り込むと、いつもとは違う匂いがした。
夜の匂い。
しんとした車内の、白々と明るい光の中で読む「りぼん」は、
いつもと何かがちがうような気がした。
物語の中の女の子の輪郭が、ざらついた紙から浮き上がってみえた。
未知の世界が色褪せていた。


それからしばらくして、あたしは「りぼん」を買うのをやめた。
14歳だった。
小学校の低学年から、毎月欠かさずに買っていたのに。
何がそんなに好きだったのか、
今となっては分からない。
買わなくなった理由さえ定かではない。

そういえば、
初めてラブレターをもらったのは、14歳の秋だった。
体育の先生に憧れて、胸をときめかしたのも、
ひとつ上の先輩と文通をはじめたのも、その頃だった。
未知の世界は、紙の上にではなく、すぐそこにあった。
目の前で、ひとつ又ひとつと扉が開かれ、
誘われて、おずおずと足を踏み出していた。


いつのまにか「りぼん」を買わなくなっていた。
発売日さえ忘れてしまった。
あたしは、「りぼん」から卒業したのだった。





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