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昇降口は、いつもひんやりとしていた。
何列にも並ぶ靴箱の前には、薄茶色の簀の子(すのこ)が敷かれていた。
わたし達は、そこへ腰をおろし、喋り続けていた。
男子と女子が入り交じり、6,7人はいただろうか。
夏休みの校庭開放日、だったと思う。
太股の裏にすのこの冷たさを感じながら、外を見ると、
校庭は発光するような夏の陽射しに塗りつぶされていて、
それは大きなスクリーンに映し出された映像のように、
どこか現実感のない景色だった。


誰かが、これからどうする?と訊いている。
どっか行こうぜー。
えぇーっ、外、あっついよー。
だって、ここにいたってしょうがないじゃん。

同じ会話が何度も、焦げ茶色のタイルに落ちては滑っていく。
どこかへ消えていく言葉をぼんやりと眺めながら、
誰も腰をあげようとはしない。

6年1組は、仲の良いクラスだった。
休み時間も、放課後も、休日も、誰からともなく誘い合い、
男子と女子の区別なく、みんなで遊んだ。
だが、わたし達はもう12歳だった。
白墨で書いた「小学生」という輪っかからは、とうにはみだし、
目の前にある「中学生」という輪の、その白い線を、
運動靴の先で探っている、そんな曖昧な歳だった。
そんな12歳であるわたし達は、すでに「異性」という言葉を知っていた。
誰もが、十分に意識していた。

ユカリはナカノが好きで、ナカノはミホが好きで、ミホもナカノが好きらしい。
そんな噂はいくつもあったし、そんなふたりを皆で冷やかしたりもした。
それでも遊ぶときは、いつも「みんな」だった。
フタリきりで会いたいというほどの勇気や邪心は、まだ持ち合わせていなかった。

靴箱の前に並んで腰をおろしながら、会話はいつまでも回りつづける。
じゃぁ、子どもの国に行って、池で筏(いかだ)に乗るってのは?
今から?
どうやって行くんだよ。
歩いて。
そんなことしたら、日が暮れちゃうよぉ。

わたしの左横に座っているのは、色の黒い小柄なチエ。
そして、その奥には、ヨシハルがいた。
運動が得意で、成績はまぁまぁだけど、学級委員。
長身で、カラダつきは誰よりも大人びていたけれど、
笑うと片頬にえくぼがへこみ、誰よりもあどけない顔になる。

女の子同士の、「誰が好き」という打ち明け話は、日常茶飯事のことだった。
胸をときめかす相手は、いつも、いた。
だが、それは思い詰めるほどに深刻なものではなく、
ふいに目があったというだけで「好き」になってしまうような、
そして、明くる日には又別の瞳に出会い、好きになってしまうような、
そんな稚い恋だった。
視線を落とすと、うっすらと土埃をかぶったタイルの隅に、ワックスのあとが残っていた。
零れて乾いた牛乳のような白い筋を見つめながら、
わたはその瞳の端で、隣の隣に座っているヨシハルを見ていた。
言葉少なに座っているその存在を、からだの左半分で感じていた。

なんか、曇ってきたぞ。
誰かの声に首を巡らすと、乾ききって白茶けていた校庭が薄暗く沈んでいた。
転がっていくバレーボールが、やけに白い。
夕立かなぁ。
チエの高く澄んだ声に振り向くと、
彼女の小さな頭の向こうで、ヨシハルがこちらを見ていた。
目があったとたん、互いに視線を逸らした。
逸らした視線で、タイルの上の一点をみつめる。
だが、その目にはなにも映ってはいなかった。
白い汚れも、土埃も。

傘もってねーぞ、オレ。
教室に忘れ物の傘があるかも。
誰か、探してこいよー。
そう言いながら、誰も立たない。
チエが前屈みになって、外を覗きこむ。
ヨシハルとわたしのあいだに、小さな空間ができる。

手が触れた。
わたしの手をヨシハルが握っていた。
いや、わたしがヨシハルの手を捉えたのだろうか。
分からなかった。
合図になるような視線を交わした記憶もない。
腕を伸ばした覚えさえなかった。
それなのに、ヨシハルとわたしの手は、
チエが作った小さな透き間の中央で、静かにひっそりと繋がれていた。

あたし、教室の傘立て、見てくる。
そういってチエがすいと立ち上がったとき、
その手は離れた。
どちらからともなく。

校庭は、ますます色を濃くしていた。
今にも、大きな雨粒が落ちてきそうだった。
生ぬるい風が、強く吹きぬけていく。
青い柿の実のような、野をかける犬のような匂いが立ちのぼり、
土埃が昇降口で渦をまいた。

あのあと、わたし達はどうしたのだったか。
たぶん誰かが見つけてきた傘をさし、雷に追い立てられるようにして
ちりぢりに走って帰ったのだろう。
翌日にはもうヨシハルとわたしは、ただの同級生だった。
目を合わせてときめくことはあっても、それ以上何もおこらなかった。
おこそうとも思わなかった。
5日後には、別の誰かを好きになり、
10日後には、また別の誰かに胸をときめかせて、
わたし達は12歳という年を通過していった。

あの時、繋がれた手と手は、
幼い「性」に導かれてのことだったのかもしれない。
そう思ったのは、もっとずっと後、オトナになってからのことだった。
12歳のわたしは、心もからだも幼すぎて、
それを「性」だと意識することさえできなかった。
だが、いつのまにか手足が伸び、体重が増えていくことと同じように、
からだの中には「性」が育ちつつあったのだろう。
それが証拠に、あの不可解な出来事をわたしは誰にも話さなかった。
親にはもちろん、親友にさえも。
そこには微笑ましいような「ときめき」とは違う、「後ろ暗さ」があったからに違いない。

12歳のコドモにだって、衝動はある。
ヒトは、生まれたときから「性」を抱えているのだから。


―― 追記 ――


昔とは比べものにならないほど、今のコドモ達の成長が早くなっているとはいえ、
自分の中にある「衝動」を「理解」し「自覚」することは容易なことではないだろう。
12歳の少年の犯した事件の詳細を知るにつれ、やりきれない気持ちになった。
幼い命が奪われたことが悲しくて悔しかった。
そして同時に、罪を犯した彼のことが可哀想で仕方がなかった。
もちろん、「命」に対する認識の希薄さや、
欲望や衝動を前にして「踏みとどまる」ことができなかったことが問題なのだと分かっている。
親と子の関係、友人との関わり、現代社会のゆがみ、
考えるべきことはたくさんあるだろう。

彼の「衝動」が「性」によって導かれたものかどうかは分からない。
だが、少なくとも、あの事件を引き起こしたのは、
「頭」で考えた「行動」というよりも、
「からだ」の中に湧き起こる「衝動」だという気がしてならない。
自分の「12歳」の時に起こった小さな「出来事」を思い返してみれば、
あれも「衝動」だったことに違いはない、と思うのだ。
それは幸い、「見過ごして」しまうほど淡く儚いものだった。
だからこそ、何もなかったように日常に戻り、
少しずつ少しずつ、青い春に向かって歩んでいくことができたのだ。
だが、あのとき、自分の中にあったのが、
理解不能なほどの強い「衝動」であったとしたら。
そして、その衝動に気付いたがゆえに、囚われてしまったら。
わたしは、それまでと同じ日常に戻ることができただろうか。

ヒトは教えられたわけでもないのに、
自分の「からだ」に関わることや、その「からだ」に埋め込まれた「性」に対して
「うしろめたさ」を持っている。
コドモであっても、なぜか、大声で話すことではないと知っている。
訳の分からない「衝動」ともなれば、向き合うことすら怖ろしい。
自分のコドモ時代は、もっと伸び伸びと明るいものだったと言う今のオトナたちにも、
その「うしろめたさ」や「怖ろしさ」はあったはずだ。
自分の中にもあった小さな闇を思い出すことができたなら、
今のコドモたちにだって、さしのべる手はきっとある。

誰もが、かつてはコドモだった。
心とカラダの成長がアンバランスな、12歳のコドモだったのだ。