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色褪せた赤い旗がヘリコプターのプロペラみたいに、
バタバタと耳障りな音をたてている。
黒々と書かれた文字が、今にも風に飛んでいきそうだ。
[遊泳禁止]

台風が接近しているという。
臨海学校の2日目が遊泳禁止だなんて、まったくシャレにもなりゃしない。
だが幸い、台風は猛スピードで日本列島を抜けていくらしい。
この辺りを通過するのは夜になってから。まだ雨は降っていない。
生ぬるい風が強く吹き、砂を巻き上げていくだけだ。
黒い雲が、ネズミ花火のようにむくむくと湧き上がる空の下では、
苦肉の策で始まったビーチバレーも、呆れるほどに盛り上がらない。
それでもあたしは砂浜に腰をおろし我慢強く試合を見ていた。
いや、本当は試合を見ていたわけじゃない。
視線の先は、白いポロシャツにホイッスルをぶらさげて審判をしているセンセイ。
残念ながらウチのクラスの担任じゃない。6年3組のセンセイだ。
ウチの担任は、丸太のようなカラダを砂浜に転がして、大口あけて笑っている。
良い先生なんだけど、タイプじゃない。
3組のセンセイは大学を出てから2年目で、独身。女子のあいだでは、一番人気。
だけど、あたしは皆みたいに、きゃあきゃあとセンセイの周りに群がったりしない。
そんな子どもっぽい「好き」とは、「好き」の種類が違うのだ。

ぽたん。
むきだしの腕に水滴がひとつ。
大きな水玉が、ふたつ、みっつ。砂浜が黒く染まっていく。
「宿に帰るぞー」
こんな時だけ迅速なウチの担任が号令をかける。
皆が声をあげて走り出す。歓声と嬌声。
濁流のように流れていく生徒達の向こうで、センセイはひとり、ネットを解いていた。
あたしはためらわずに駆け寄って、その結び目に手を掛けた。
しだいに激しくなる雨に目を瞬かせてセンセイは、大声で言った。
「いいから宿に戻れ」
「大丈夫です」
言い返す口の中にも容赦なく雨粒が入ってくる。
「それより、それを宿に持って帰ってくれないか」
センセイはそう言って、砂の上に放り出された水色のファイルを指した。
表紙に書かれた「臨海学校」という文字が雨粒の中で溺れている。
肯いて拾い上げ、駆け出そうとするあたしを「サトミ!」と呼び止めたセンセイは、
「悪い。これも」と胸ポケットからタバコを取り出し、投げてよこした。
雨を吸い込んだセンセイのタバコは、仄かに温かくて、じっとりと重かった。

クラスごとに風呂に入って着替えると、もう夕飯の時間が迫っていた。
自分の荷物の上に広げておいたファイルは、まだ湿って波打っている。
タバコは絞れば水が滴り落ちそうだった。
でも、どうしようもない。
あたしはファイルとタバコを手に、先生達の部屋のドアをノックした。
顔を出して「なんだ?」と聞いたのはウチの担任だった。
ドアの透き間から中を覗いてみたが、センセイはいないみたいだった。
これ、預かっていたもので。と、ファイルを渡し、
「おお、サンキュー」とキューピー人形のように笑う担任にお辞儀をして、
ドアをしめた。
タバコは後ろ手に隠したままだった。

部屋に戻ったあたしは、びしょ濡れのタバコを旅行鞄に押し込み、
財布からつかみだした小銭を短パンのポケットに忍ばせて食堂へ向かった。
騒々しい夕飯を終え、部屋に戻る生徒の波から、そっとはずれる。
短パンのポケットに硬貨が入っていることをもう一度確かめて、
宿の名前が書かれた大きな黒い傘をさし、こっそりと外に出た。
宿の前を走る国道の向こうは、もう砂浜だ。
ねっとりとした墨汁のような海に、白く泡立つ波が高く大きくうねっている。
大きな傘の柄を両手で握りしめ、たたきつける雨の音を聞きながら足早に歩き、
白々しいほどに明るいコンビニへと飛び込んだ。
だが、レジの奥の棚に、センセイのタバコは見あたらなかった。

金髪の店員に向かってタバコの銘柄を告げ、ありませんか? 
と訊いたその時、ぽんと肩を叩かれた。
ぎくりと音をたててからだが固まる。怖々と振り向く。
センセイが、困ったような顔をして笑っていた。
店員の差しだすタバコを受け取って、代金を払ったセンセイが、あたしに言った。
「イエローカード」
だって……、と口を尖らせるあたしに向かって更に言う。
「子どもがタバコなんて買うもんじゃない」
かちんときた。咄嗟に言い返す。
子ども?
そう、子ども。12歳は未成年だろ。未成年の喫煙は法律で禁じられています。
笑いながらそう言うセンセイがなんだかやけに憎らしい。
トシなんて関係ないでしょ。だって、これはセンセイの…。
あたしの固い声を聞いて、センセイの笑顔もわずかに硬くなる。
わかってるって。その気持ちは有り難いけど、でもさ。
……キモチはアリガタイけど?
そのコトバが悔しかった。
無性に腹立たしくてわけも分からず哀しくて、思わず大声で叫んでいた。
センセイのバカッ。
センセイのまなざしから笑みが消えた。
あたし、もう子どもなんかじゃないっ。
喉の奥が熱かった。
こみあげてくる甘苦い塊を、必死の思いでせき止める。
唇をきつく噛んで、涙をこらえる。

悪かった。
センセイがゆっくりと口を開いた。
そうだな、サトミはもう子どもなんかじゃないな。
そう言って、静かに笑った。
とたんに、ひとつぶ涙が落ちた。
喉の奥の熱い塊がとろとろと流れ落ちていく。
傷口にオキシフルを垂らした時みたいに、胸の底がじゅんと沁みた。

戻ろうか。
センセイが、あたしの頭に手を置いて優しく問いかける。
あたしは肯いて、自動ドアを踏んだ。
雨は小降りになっていた。風も湿気た空気となって留まっている。
台風の目に入ったのかな。
そう呟きながらセンセイは、開いた傘をあたしにさしかけた。
弱まった雨音の代わりに、波の音が打ち寄せていた。
センセイとふたり、傘の中にいることが嬉しいはずなのに、どうしてだか苦しかった。
砂浜に打ち上げられた魚みたいに、うまく呼吸ができなかった。
このままずっと一緒に歩いていたいという想いと、
早く宿に着いて欲しいという願いが、つむじ風のように渦を巻いていた。
目の前にある日焼した腕に触りたいと思いながら、
肩が触れあうことさえ怖れていた。

いつも見つめつづけてきた、見慣れたはずのセンセイのカラダが、
海みたいに大きく感じる。
そこに何が潜んでいるのか分からない夜の海。
あたしには、その海に飛びこもうとする勇気もない。
やっぱり、まだコドモなのかな。ううん、ちがう。コドモなんかじゃない。
黒く濡れたアスファルトに目を落とし、胸の中でそう繰り返す。
ゴム草履を履いたセンセイの足はごつごつと大きくて、
それはやっぱりオトナのオトコの足だった。
雨水が跳ねあがったあたしの足は、おうとつがなくて、つるつると頼りない。
その小さな足はどうみても情けないほどに子どもの足だった。

センセイが小さな声でくちずさんでいる。
知らない歌だ。
コドモのあたしが聴いたこともない歌。
いくつになったらオトナになれるんだろう。
センセイはいつからオトナになったんだろう。
潮の香りと雨の匂いと、微かなタバコの匂いを嗅ぎながら、
あたしはそのことばかりを考えていた。
宿の傘をコンビニに忘れてきたことなど、思い出しもしなかった。

やけに静かな台風の夜の中、
砂浜に赤く滲む[遊泳禁止]の旗が、所在なさげにうなだれていた。




+800字「台風の夜に」「コンビニで」「6年3組の先生が」
というお題から、ふと思いついたものの、とても800字では……。
というわけで、確信犯的掟破り。
すみません。