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我が家のトナリには、アメリカ人の夫婦が住んでいる。
30代後半の(たぶん)ご夫婦である。
清涼菓子のCMでお目に掛かりそうな「すっきり爽やか系」ダンナさまと、
近代的オフィスで働く「きりっと賢いセクレタリー系」奥方。
マンション暮らしの利点は、トナリは何をするヒトぞ、
というほどにお互いのプライバシーが守られていることだけれど
(もちろん、そこが欠点にもなり得るのだけれど)、
顔を合わせる回数が増えれば、「挨拶」ていどは交わすようになる。
しかも、おトナリは「外人さん」である。
日本人とちがって、不必要に恥ずかしがったりせずに、
おおらかで晴れやかな笑顔を直球で投げてくる。
すっきり爽やかにスマイルして、トナリのダンナさまは言う。
「やぁ、調子はどうだい?」「最高の天気だね」「どこへ行くんだい?」
(外国人の会話を日本語にすると、クダケタ調子になるのはナゼなんだろう)
しかし、英語は「からっきし」なあたしの口から出てくるのは、
哀しいかな、イエスかノーくらいのものである。
オットが一緒にいる時には、彼に全面的にお任せして、
背中に隠れてニコニコ、ニコニコ。

が、しかし。
外国人にも例外はあるのだ。
きりっと賢そうなトナリの奥方は、外人さんであるのに、愛想が悪い。
唇のはしをちらっとあげて(きっと笑顔を作っているのだとは思うのだけど)、
「Hello」とヒトコト言えば良いほう。
あのダンナ様には、似つかわしくない愛想の悪さである。
これにはオットも首を傾げた。
珍しいよね。
うーん、どうしてなんだろう。

もしかして。
彼女は、ニホンが嫌いなのかもしれない。
この国で暮らしているということ自体が、不機嫌の元なのかも。
我々は、勝手に、そんなふうに結論づけようとしていた。

だが、ある日のこと。
珍しく平日の昼間、トナリの奥方とエレベータに乗り合わせた。
例によって、ハローだけのご挨拶。
扉に向かって立つ彼女の後ろにいたあたしは、
その胸に抱えていた1冊の重そうな本に興味を惹かれ、そっと覗き込んでみた。
「JAPANESE」
それは、「日本語」の教科書だった。

そうか。
もしかしたら。
彼女は、ニホンが嫌いなわけではないのかもしれない。
ニホン語が喋れないってことに、コンプレックスを感じているだけなのかも。
英語を喋れない日本人が、
外人の前で「寡黙なヒト」になるのと同じように。
なるべく話しかけられないように、
目を逸らしたり、下を向いてしまうのと同じように。
外国人は、たとえ日本語が話せなくても、母国語でどんどん話しかけてくる。
訳のワカラナイ日本語であっても、どんどこ喋ろうとする。
そう思いこんでいたあたしの目から、ウロコが一枚はらりと落ちた。

数週間後。
エレベーターで会った彼女は、丈の長い花束を抱きかかえていた。
花束は、薄紫色のビニールシートに包まれている。
どうやら、「生け花」を習い始めたらしい。
深い藍色の菖蒲(あやめ)の花を見ながら、あたしは思わず言っていた。
「beautiful」
彼女は、少女のようにはにかみながら肯いた。

その日から、少しずつ彼女の態度は柔らかくなっていった。
我がオットと、ダンナさまとの会話にも、
ヒトコトふたこと言葉を挟むようになっていた。
が。
あたしはといえば、相も変わらず、
一歩退いてニコニコ笑顔を浮かべているだけだ。
彼女にとって、トナリのオクサンは、進歩のないニホン人かもしれない。
そう思うたび、その碧い瞳からそっと目をそらしてしまうあたしなのだった。

  
  
ゴザンス・テーマ「トナリのニホン人」
2002.10.17.