風邪をこじらせた。
ひと月経っても咳がとまらない。
夜、うつらうつらと夢の世界に入った途端、決まって咳き込んで布団を這い出す。
隣で眠る夫も熟睡できない。
意を決して、喘息治療で定評のある病院の呼吸器科に、紹介状もなしに飛び込んだ。
カルテに書かれた病名は、やはり喘息だった。
「大人の喘息は治りにくいの。発作の要因も人によって違うし、
精神的なものも関係するからね」
担当の女医が処方してくれたのは、
予防用吸入薬、飲み薬と、発作時に使用する吸入薬。
この発作止めは、使いすぎると死に至ることもあるという。
確かに、これは劇的な効き目だった。
どんなに酷く咳き込んでいても、吸入した数分後には、
何事もなかったかのように笑っていられる。
子供や重症患者なら、つい使ってしまうだろう。
誰だって、苦しみは少ない方が良いに決まっている。
薬を服用するようになって半年あまり、なんとか症状も落ち着いてきた。
低気圧や体調に左右されることも分かり始めた。
それでも、発作は時折かつ突然にやってくる。
副作用を気にしながらも発作止めを使う私を、夫はいつも心配していた。
台風が近づいているという夏の湿気に被われたある夜。
寝入って間もなく、ひゅーっという自分の喉の音で目が覚めた。
起きあがってベッドの縁に腰掛ける。
しばらく我慢をしていたが、いっこうに楽になる気配はない。
絡みつく咳の合間に浅い呼吸を繰り返す。
もう限界、発作止めを使おうと立ち上がった時、
「ちょっと待って」
背中で夫の声がした。
夫は、立ったままの私の背中に両腕を回して、
子供をあやすように自分の胸の中に抱え込んだ。
「ゆっくりと呼吸して」
そう言って、自分も大きな呼吸をしてみせる。
思うように息を吸えない私。
「数を数えてごらん。いーち。にぃーい……」
夫の胸がゆったりと波打つ。
おずおずと息を吸い込み、夫の声に合わせて、そっと吐き出す。
心の中で、一緒に数を数えながら。
「そうだよ。ゆっくり息が出来れば大丈夫。百まで数えたら、咳は止まるから」
確信を持って言う夫の言葉に、訳もなく安心する。
無理矢理引き伸ばしていたような呼吸が、少しずつ少しずつ楽になっていく。
ごじゅうごぉ、ごじゅうろーく……。
胸に耳をあてて聞くその声は、夢の中から響いてくるように、私の躰を包む。
「ほら、ひゅうひゅういわなくなった」
いつの間にか、意識をせずに呼吸していた。
躰を揺さぶるような咳も、落ち着いている。
「もう百数えたの?」
「あれ、聞いてなかったのか?」
なんだか、眠くなっちゃって……。
呆れた顔で夫が笑った。
あれから一年半。
発作の回数は、ぐっと減った。
「発作止めは要りますか?」
診察室でそう訊かれる度に、首を横に振る。
私には、夫が唱える「百」という特効薬がある。
効果の程は実証済みだ。
いまだ、百まで数え終えたことがないのだから。