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白銅貨音楽堂 」のくろつぐみさんが主催する、
「懐古ブログ同盟 」に登録させて頂いた。

「懐古」ということばを辞書でひくと、
『昔のことを思い起こしてなつかしむこと』とあるけれど。
あたしはそれほど過去に執着しているつもりはない。
「昔のこと」ばかりを、甘露なあめ玉のように転がして生きているわけでもない。
だけど。
エッセイなどを書こうとすると、
なぜか「昔のこと」が、ほろほろとこぼれてくる。
記憶というのは不思議なもので、
ふだんは、健忘症じゃないかと心配になるほど物忘れがひどいのに、
胸の箱の中にある小さな記憶のかけらを、
何かの拍子にふと取りだしてみたりすると、
その欠片に繋がって次々にいろんなものが現われるのだ。
まるで手品師のシルクハットから出てくる万国旗みたいに。

忘れていることさえ忘れていたような、記憶のかけら。
それは、ひとつの場面だったり、誰かの声だったり。
暮らしの中の小さな道具だったり、
吹き抜ける風だったり、草いきれだったり、
ひんやりした畳の感触だったり。
そういう全てを含んだ「家」だったり。

だからあたしにとって「懐古」とは、
「記憶」と同義語のようなものかもしれない。
記憶のかけらは、ほんとうに唐突に、突拍子もなく現われる。
「ふと」思い出した、というだけのものだから、
放っておけばたちまち又忘れてしまう。
忘れてしまったところで、今の暮らしには何の支障もない。
でも、まちがいなくあたしの中にはそれらがあるのだ。

そういった「かけら」がたくさん集まって、
今のあたしがここにいる。
だから、「ふと」思い出したときに、
「ふと」書き留めておきたいと思う。
逃げ足の早い記憶のかけらのちっぽけな尻尾を、ひょいと捕まえて、
そっと並べておきたいと思う。
「懐古」という小さな博物館の小さな棚に。
ひそやかに。


◆◇◆

そういえば、小川洋子の「沈黙博物館」や「薬指の標本」は、
まさに「記憶の標本」のようなもの。
あの小説に漂うひっそりとした静けさが、たまらなく好きだ。

大好きといえば、
「大正時代」や「昭和初期」の匂いがするものも、すごく好き。
家も道具も玩具も。
自分が生まれる前にあったものにも、
見たことも触ったこともないようなものにも、
なぜか強く惹きつけられる。
たぶん、そこには「原風景」のようなものがそこにあるからだと思う。
自分が生まれ育ったこの国の原風景みたいなもの。
やがていつかこの国の土に還る自分の、その土の匂いのする原風景。

「思い起こして懐かしむ」というのではなく、
「懐かしくて古いもの」を「ないがしろにできない」という感情。
わけもなく、どうしようもなく惹かれる、というだけの「懐古」
あたしにとっての「懐古」は、そういうものだ。