それは玄関のドアポストに入っていた。
 A4判の分厚い茶封筒。茅島セリ様。それだけだ。切手も消印もなければ、住所も書かれていない。裏返してみたが、差出人は「インフィニティ」としか書かれていない。いつ届けられたのだろう。おまけに、休刊日でもないのに、朝刊が入っていない。なんだか変な朝だ。
 リビングの窓際に座り込み、封筒をあける。もうすぐ7時だというのに、あたりは夜とも朝ともつかないような弱々しい光の中に包まれている。薄暗がりの中、目を懲らす。中から出てきたのは、1冊の分厚いファイルだった。表紙を開くと、水色のレターペーパーが一枚挟まれていた。
「あと24時間で地球は滅亡します」
 また訳の分からない宗教の勧誘か、そう思った。だがそれにしては書類の量が多すぎる。いったい何だっていうんだろう。

 ぱらぱらと捲っていくと、粒子の粗い小さな写真に目がとまった。
 肩までのまっすぐな髪。きっちりと結んだ唇。白いブラウスに紺のジャンパースカート。これは、私? そうだ。間違いない。小学校の入学式の写真だ。横には、今はもういない母が着物をきて立っている。強ばった顔でカメラを睨んでいる私よりも、母のほうがずっと嬉しそうに笑っている。写真を撮ってくれたのは、たしか、父だった。
 写真はそれだけではなかった。産湯をつかっている赤ん坊の私から始まって、幼稚園の運動会もあれば、高校の文化祭の写真もある。コピーされた成績表、大学の学生証、保険証、住民票。
 まるで履歴書だ。いや、年表と言った方がいいかもしれない。年月日と、そのときの年齢、出来事、写真、添付書類、そういったものが詳細に記載されている。9歳のときに骨折したことも、22歳で親知らずを抜いたことも。22歳で結婚し、27歳で離婚したことも。
 そして最後に記載されているのは、今日の日付と、29歳という私の年齢だけ。何も書かれていない。写真もない。
 いったい、誰がこんなものを。
 呆然としながら、一枚目の紙に戻り、目を通す。

「地球というこの青く美しい星が、爆発し、消滅する運命にあることが確定的になったのは、20年前のことでした」

  この20年間、我々は秘密裏に研究と対策を進めてきました。
 インフィニティというのは、世界各国から選び出された者達によ
 るプロジェクト名です地球の存続のために、初めて全世界が一丸
 となったのです。
  ちょうど20年前、全ての人々にナンバーがつけられ、ひとり
 ひとりのプロファイリングが始まったことはご存知の通りです。
 行政管理や手続きの簡易化のためという名目で強行実施されたこ
 のプロファイルには、実は、各人の誕生から現在までの詳細なデ
 ータが収められていたのです。地球を救うためには、ひとりでも
 多くの力が欲しかった。隠れた才能や知力、秀でた能力を持った
 人を捜し出す。それがこのプロファイリングの目的でした。
  もちろん、私達がやってきたのは、このことばかりではありま
 せん。あらゆる方面から出来得る限りのことをしてきました。そ
 れだけは信じて頂きたい。

 しかし残念ながら、地球の運命を変えることはできませんでした。
 この結果を公表する時期についても、数え切れないほどの議論を
 重ね、結果、このような直前のご報告となりました。もし数ヶ月、
 数週間前に公示したとしたら、恐怖心から世界中がパニックに陥
 るに違いない。どうあがいてもこの運命から逃れられないのなら、
 混乱のままに終焉を迎えるのではなく、静かな最期の時間を過ご
 したい。過ごして頂きたい。
  我々はそう考えたのです。

  この24時間、電話以外の通信はすべて切断されます。電話も、
 通話割引という名目で指定登録して頂いた番号のみ、接続可能
 となります。必要以上の混乱を招かぬように、と考えた結果の対策
 です。全てが事後通告になってしまったことをどうかお許しください。

 そして、最後に。
 このプロファイリングを、皆さまにお返し致します。
 ここにあるあなたの歴史は、たとえ地球が消滅しても、消えるこ
 とはありません。あなたが生きてきた時間は、誰にも消すことが
 できない。永遠なのです。
 たくさんの命を育んだこの星が爆発するということは、永遠の
 「生」が、宇宙に向かって「無限」に広がっていくということ。
 我々はそう考えています。
 そして、いつか又どこかの星で、きっと命が生まれる。
 それは、私達人類の生命を継いだ、新しい命です。

 宇宙のどこかにある青く美しい星で、
 いつかまた、お逢いしましょう。


 開け放した窓から風が舞い込んできて、薄いレターペーパーがかさりと音を立てた。レースのカーテンが、ふわりと膨らむ。頭の中には、インフィニティという文字ばかりが残っている。あれはいつ頃だったろう。父さんが乗っていたっけ、インフィニティという名の深い緑色の車。車高が低くて、沈み込むようにして発進する、都会を走る気高い獣のような車。お洒落な父さんに、よく似合っていた。確か、「無限」っていう意味だった。
 もう一度手の中の紙に視線を戻す。
 インフィニティという書名と共に、今日の日付と、署名した時間が記されている。
 7:00AM 
 時計を見る。七時だった。
 今から24時間ということなのだろうか。
 訳が分からなくなってきて、リモコンを手に取り、テレビをつける。が、何も映らない。真っ黒な画面に時折光が飛ぶだけだ。ラジオは、しんと静まってノイズさえ聞えない。インターネットも繋がらない。電話機の登録ランプだけがやけに冴え冴えと青く輝き、接続可能であることを告げている。

 窓をあけてベランダに出ると、あたりはやけにしんとしていた。囀る鳥の声も、車の通る音もしない。遠くどこからか赤ん坊の泣き声が聞えてきて、少しだけ安堵する。良かった。世界はまだ終わっていない。
 向かいのマンションの一室に白々と灯りがついている。床に蹲って、若い男が分厚い本のようなものを捲っている。あれも、やはりプロファイルなのだろうか。
 そう、おそらくどの家にもこのファイルは届けられている。夜も明けぬうちから、こんなものが舞い込んできて、騒ぎにならないのは何故だろう。皆、私と同じように、ぼんやりと受け止めてしまっているのだろうか。この文面を。 真実なのか、嘘なのか。そう疑う気持ちさえ湧いてこない。

 リビングの床にぺたりと座り、書類をめくる。細かな字で書かれた自分の歴史を読むうちに、ひとつずつ確認し、思い出す。古いモノクロの写真が、頭の中で鮮やかに彩られていく。不器用だった幼い自分を微笑ましく見つめ、私を取り巻く人々を懐かしく思い出す。たぶん、この二十四時間を、わたしはこうして過ごすのだろう。ファイルを捲り、生きてきた時間を甦らせ、からだに刻み込むようにして。

 キッチンに立ち、コーヒーメーカーのスィッチを入れる。ぽとぽとと落ちる香しい滴を眺めながら、想う。あとで、父さんとナズナに電話をしよう。
 父さんは、大丈夫だ。きっと落ち着いて、コレクションのパイプでも磨いているだろう。母さんのことを思い出しながら。私は母さんが好きだった。美しくて明るくて可愛らしくて。何をしても母さんには勝てないと思っていた。勝ち負けの問題じゃないというのに。不器用で生真面目で可愛気のない子どもだったと思う。それでも、母さんは愛してくれた。そんな母さんを、父さんは今も愛している。
 妹は、どうだろうか。学生のナズナは、まだ何も知らずに寝ているかもしれない。歳が離れているせいか、まだまだ子どもだと思っていたが、あの子ももう20歳なのだ。辛く哀しいことがあの子を襲い、一時は本当に心配した。可哀想でならなかった。だが、ナズナは自力で這いあがった。だから、きっと、今度も大丈夫だろう。それに、あの年頃なら最期の時は、家族より友達や彼氏と一緒にいたいと思うかもしれない。彼氏がいれば、の話しだけれど。いや、まだそこまでは立ち直ってはいないだろうか。でもナズナは、愛らしい子だ。皆に愛されている。だから大丈夫。きっとひとりではない。

 夫だった男のことを、ほんの一瞬思い出す。だが、彼の電話番号を登録してはいない。それに、電話をしようとも思わない。ひとりでいることよりも、ふたりでいることの方が淋しい。そう思ったからこそ別れたのだ。それから2年、ようやく私は自分の人生を生き始めたような気がする。結婚したことも、別れたことも後悔などしていない。道に迷ったからこそ、ようやく自分を探し出すことができたのだと思う。やっと自分のことを好きになることができたのだ。この2年があって、本当に良かった。
 最後の時は、ひとり静かに過ごしたい。最期だからこそ、この一日を自分のためだけに使いたい。

 マグカップを手にリビングに戻ると、消し忘れていたテレビの画面が黒く渦を巻いていた。砂粒のような星が、無限の宇宙にを自由に飛び交っている。
 ガラステーブルの前に座り込み、私はゆっくりと珈琲を飲む。ファイルを又最初から捲る。乳母車の中で笑っている私がいる。きっと母さんが変な顔をして笑わせていたに違いない。くすりと笑うと、ふいに小鳥が囀りはじめた。窓の外が、淡い光に白く輝いている。風が吹く。胸一杯にその風を吸い込もうとした、その時。
 風が香った。
 これは……。
 立ち上がり、窓辺に駆け寄った。
 思い切り息を吸い込んで、風に吹かれる。甘やかな風に包まれて、私はひとり静かに微笑んでいた。



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特集テーマ「24時間後地球が消える ―ニュース!」