全部で、30本。
 机の上に並べ終えたパイプを眺め、思わず呟いていた。
 カーテンを開け放した窓の外はまだ薄闇に沈んでいる。本棚に置かれた写真立てが、ぼんやりとした夜明けの中に浮かんでいる。ソファーの上に開いたファイルにも、同じ写真。母さんの笑顔。――あと24時間か。

 そのことを知ったのは、ほんの一時間前のことだった。玄関のドアが音を立てて開いたと思ったら、清子さんの「旦那様」と呼ぶ声が家の中を駆けてきた。答える間もなく、ドアをあけて走り込んでくる。こんなふうに私の寝室に入ってくるのは珍しいことだった。いや、家政婦として我が家に通ってきた6年間で、初めてのことだ。
 手渡されたのは、ずっしりと重い封筒だった。郵便受けに入っていたと言う。
 私の家にも来ていたんです。すぐにお知らせしなければと思いまして飛んできました。
 歩いて20分の道のりを走ってきたのだろう。肌寒いほどの秋の朝なのに、額に汗をかいている。私が書類に目を通している間中、清子さんは息を荒げながらそこにじっと立っていた。ようやく事態を飲みこんだ私に、「本当でしょうか」と問う。「そうみたいだね」とゆっくりと答えると、大きな溜息をついて肯いた。そしてあらたまった声で「今までお世話になりました」と静かに言い、深々と頭をさげた。そのまま下がって、いつものように台所に行こうとする清子さんを引き留め、私は彼女を家に帰した。今日は、ご主人と一緒にいてあげてください。そう言うと、清子さんはすぅっと落ち着いたようだった。しばらく考えたあと、丸い顔に穏やかな表情を浮かべ、「そうさせて頂きます。今まで本当にありがとうございました」と、笑顔さえ浮かべて帰っていった。

 ひとりになった私も、同じように穏やかな気持ちだった。なぜなのかは分からない。ひょっとしてあのファイルに、催眠効果でも仕掛けてあるのだろうか。それとも、この重大な事態を静かに受け止められるようにと、テレビや新聞などにサブリナミル効果のある何かが、いつからか施されていた、とか。そう考えて、苦笑した。
 今更、そんなことを知ったところで何にもならない。それよりも、今日という最後の一日をどう過ごすか、だ。
 そう思いながら、私はいつもと同じように服を着替え、顔を洗い、珈琲を煎れ、書斎に入った。そしてファイルをソファの上にそっと置くと、特に深い考えもないままに、棚からパイプを取り出し、ひとつずつ丁寧に並べていたのだった。

 一番古いパイプは、セリが生まれる前の年のものだ。
 病院で妊娠を確認した母さんが、その帰りに買ってきた。
 あまりにも嬉しかったから思わず買ってしまったの、あなた欲しがってたでしょ、と笑う楓子はまだ若かった。少女のような面差しさえあった。もっとも、母さんは死ぬまでずっと少女みたいな女だったが。
 それにしても妊娠の記念に夫にプレゼントを買うなんて聞いたことがない。しかも、それがパイプだっていうのが、おかしい。だが、嫌煙などという言葉がまだ一般化してない頃だった。母さんは、とにかく私を喜ばせたかったのだろう。母になる喜びを、何かで表したかったのだ。もちろん私はおおいに喜んだ。子どもを授かったことも、パイプの贈り物も。そんな私を見て母さんは言った。お腹の中にいるセリに向かって。
 来年からパパの誕生日のお祝いは、パイプにしましょう。
 セリもナズナも、私のことを父さんと呼ぶのに、楓子だけはパパと呼んだ。おかしな女だったな、母さんは。
 一本目のそれは、木の切り株に黒い柄がついたような、素朴な感じが気に入っている。グッドラックという名前のパイプだった。

 セリが生まれた時は、マホガニーのパイプ。パイプと聞いて、誰もが思い浮かべるようなシンプルな形だ。質素だけれど、しっかりとした重みがある。派手ではないが、品の良い美しさがある。思えば、このパイプはセリによく似ている。母さんは、こんな美しさを我が子に願ったのかもしれない。だとしたら、セリはその通りの娘になったな。母さん。

 ナズナが生まれた年が、10本目だ。
 セリが5歳になっても、次の妊娠の気配はなかったから、子どもはセリひとりで良いと言い合っていた。だから9年目にして授かるとは思いもしなかった。
 セリという名前は、母さんが決めたんだったな。確かに私は、楓子の楓はカエデだから、娘ならやっぱり植物の名前が良い、とは言った。だが、植物の名前と言ったら、普通は桃とか桜とかを思うだろうに。
 母さんがつけたのは、セリ。理由は「強いから」
 わたしの実家のすぐ傍に澄んだ小川が流れていて、そこにいつも青々とした芹が生えていたの。抜いても抜いてもちっとも減らなくて。台風が来て暴風雨になっても、翌日見に行くとしっかり立ってた。女の子でも、これからはそれくらい生命力がなくっちゃね。
 母さんはそう言ったんだ。そう、セリは名前の通り強くなった。離婚という辛い時期を乗り越えてから、あの子はとても母さんに似てきた。よく笑うようになったよ。ちゃんとひとりで生きている。だから、きっと大丈夫だ。この最後の時を、きちんと受け止めているだろう。

 だから、「セリ」は良いとしよう。だが、セリの妹をナズナという名にする、と母さんが言ったときはさすがに耳を疑ったよ。
 それじゃ、春の七草だ。私がそうからかうと、母さんは「そうなの」と肯いた。嬉しそうに。それじゃ、もし、この子の妹か弟ができたら、その子は、ゴギョウっていう名になるのか。私は冗談で言ったのに、母さんは目をくりくりさせて「男の子なら、それも良いわね」と笑っていた。さいわい、ナズナの下は生まれなかったが。
 いや、今となったら、春の七草でも良いから、もっと子どもがいれば良かったとも思う。母さんの面影をどこかに宿した7人の子ども。そうすれば、母さんが逝ってしまったあとの淋しさが、少しは薄まったかもしれない。

 ナズナって、あの小さな白い花が可愛いでしょう。それに、小さな菱形の葉がふるふると揺れて。きっと誰からも好かれて可愛がられるような女の子になるわ。
 母さんの予言通り、ナズナは、愛くるしい女の子になった。小さな顔に、母さん譲りのくりんとした瞳。誰からも好かれる明るい子だったが、彰君が亡くなってからの一年は、ナズナを見るのが辛かった。すっかり表情を失ってしまっていた。笑い方どころか泣き方までをも忘れてしまったみたいだった。
 愛する者をなくした時の気持ちは、痛いほど分かる。私だって母さんを失っているからね。だが、そんなときは、いくら親子であっても姉妹であっても友人であっても、何もできない。本人が自分で乗り越えるしかない。十分に悲しんで、十分に嘆いて、その哀しみをからだに馴染ませる。そこまでいって初めて、次の一歩を踏み出すことができるんだ。
 ナズナは、頑張ったよ。あの若さで。でもまだどこか無理しているようにも見える。あとは「時」が過ぎるのを待つしかない、そう思っていた。だが、もう「待つ」必要もなくなった。地球が消滅するということは、命が果てることだ。そうしたら、ナズナは、また彰君と会えるだろう。きっとあのふたりは、どこかで又巡り逢うような気がする。私も、逢えるだろうか。母さんに。顔もからだもなくなって魂だけになったとしても、楓子は私のことが分かるだろうか。

 楓子が贈ってくれたパイプは、23本目が最後だった。
 いつも笑顔で、誰よりも楽しそうに生きていた楓子が、44歳の若さで逝ってしまうなんて誰が考えただろう。だが、そのことはもう良い。十分に悲しんだ。悲しみぬいたからこそ、こうやって生きてこられた。
 ひとりパイプを磨くとき、夜更けに台所の床板がぎっと軋むとき、庭の金木犀が一気に香り始めたとき、楓子を強く想った。想うとき、お前は必ずそこにいた。私の中に。だから、今も一緒にいる。最後の時まで、私は母さんと一緒だ。

 24本目はセリが買ってくれたのだった。
 就職が決まったから前祝い。奮発したんだから、と照れくさそうに差し出した。自分に嬉しいことがあると、人に贈り物をしたくなるのは、楓子と同じだ。血は争えない。
 ナズナは、まだ中学生だった。セリは、よくやってくれたよ。楓子の代わりとなって。それから後は、セリとナズナがふたりでお金を出し合って、贈ってくれた。

 ここに並んでいるパイプは、そのまま、この家の歴史だ。プロファイルにも書いていない家族の履歴だ。残念だったな。インフィニティの諸君。どんなに優秀な君たちにだって、知り得ないことはあるんだよ。
 そういえば、インフィニティという車があったな。セリはあの車が好きだった。クールな猟犬みたいな車だった。もちろん本物の犬も飼った。庭に鳥の餌場を作ったこともある。枇杷の木も植えた。揺りかごを作って、木陰に置いた。金木犀は、紙婚式に植えたのだった。初めての結婚記念日に。母さんが私にねだったただひとつのものだった。
 この家も庭も、古くなった。

 ようやく辺りが白く明けてきた。
 軋む椅子から立ち上がり、窓をあける。深く息を吸い込みながら、腕を思い切り天に伸ばした。その手が、空(くう)で、止まった。
 冴え冴えとした風が、甘く匂う。
 肌に沁みるような甘い香り。
 金木犀だ。

 枯れた芝生の先に、見上げるほどに伸びた大木から甘やかな香りが降ってくる。昨日までは蕾にさえ気づかなかったというのに。
 私は、すぐさま机の横の受話器をとりあげて、セリの登録番号を押そうとした。ナズナにも伝えなければと思った。だが、カーテンを揺らして舞い込んでくる香りに、もう一度その手をとめた。
 電話などしなくても、娘たちはもう気づいているはずだ。この切ないほどに懐かしい香りに。セリも、ナズナも、母さんの企みに思わず笑っていることだろう。風に乗って逢いにくるなんて。離れて暮らす家族の皆を一度に迎えにいくには、これしかないよな。母さん。
 まったく、楓子には最後まで驚かされたな。

 微かな陽射しが、庭に降り注ぐ。
 窓辺に立って空を仰ぐと、重く垂れこめた雲がわずかに口を開いていた。その向こうに、無限の宇宙が広がっている。インフィニティ。そう呟いて、想う。
 からだのない魂は、どこまでも自由でいい。
 な、楓子。
 星くずのような金木犀の花が、風に揺れて一斉に肯いた。





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ゴザンス・特集テーマ「24時間後地球が消える ―ニュース!」