〈桜の樹の下には屍体が埋まっている〉
そう書いたのは、梶井基次郎だ。
桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられない。だから、きっと。
桜の樹の下には屍体が埋まっているのだ、と。
暗闇に浮かぶ仄白い桜の姿を見ると、
この言葉が人さし指を立てて、私の背筋をつっと撫でる。
ぼんやりと艶やかに、きっぱりと儚げに咲く爛漫の桜。
息苦しくなるほどの無数の花を見上げながら、
こいつはオンナだなと秘かに想う。


 気付いたときには、蕾は既に、小枝の先に灯っている。
 まるで人目を憚るように。
 胸の中で描いていたときより、ずっとずっと濃い桃色。
 躰を強ばらせる蕾の中で、息を詰めて潜むオンナが、芯を紅く照らすのだ。

 ひとつ、ふたつ。
 固い蕾がほろっとほどけ、薄い花弁が頼りなげに、まだ冷ややかな風に震える。
 花弁の色は、桜色。限りなく白に近い遠慮がちな薄桃色。
 いいんです。忘れてください。私のことなど。
 目立たぬ花は、立ち去っていくオトコの耳朶を撫で、そう呟く。
うっそりと笑いながら、またひとつ、小さな花を開いてみせる。

 落ちてくる闇の向こう、胸の透き間に貼り付く花影。
 怺えきれずに、もう一度だけ。
 まばらに開く桜の花は、夜の闇に溶けそうなほど、楚々と咲く。 
 しなやかに枝を揺すっては、さわさわ、さわさわと手招きをする。
 私を見て。もっと近くで。
 花は、爪の先ほどの白い雪洞。
 透き通るほどきめ細かな肌に、腕を伸ばし、触れてみずにはいられない。
 指先に、ひたりと吸いつく花びら。
 慌てて手を引くオトコの指は、鱗粉が塗されたかのように、
 月あかりを受けて妖しく輝く。

 満ち始めた月さえも浮かれてはしゃぐ春の宵。
 昨日より今日、今日より明日。
 仄白い花が増すほどに、しどけなくなる桜の狂気。
 生まれついての娼妓のように。
 もう、行くまいぞ。
 木霊する内なる声を裏切って、オトコは夜毎、後ろめたさを愛おしむ。

 満開の桜は、散りゆく運命。
 時を知った花達は、われ先にと咲いて乱れる。
 今日を最期にと、オトコは想う。
 満ち足りた月が昇り、闇は褪せ、いつもの道を足早に行く。
 今宵限り、今宵限り。
 風に煽られる竹林のように、オトコの胸がしなって波打つ。
 ざわざわと、ざわざわと。それでも歩みは止まらない。
 月の光を全身に浴びて、満開の桜は、両手を広げる。
 無数の花が、嫣然とほほえむ。
 一筋の風が、耳元を掠める。芽吹いた木々が、オトコに囁く。
 行ってはならぬ。行ってはならぬ。
 ひとひらの花弁が、オトコの耳に舞い、くすぐるように鼓膜をふさぐ。
 吹きかけられる薄紅色の吐息。
 桜の樹の下で、空を仰ぐ。
 月の光を吸いとった無数の花が、妖気を発して瞬いている。
 遠く近くもつれる花に、オトコの躰がぐらりと傾ぐ。
 頬にうなじに触れる花弁。
 その刹那、桜に抱かれてオトコは悟る。
 自ら散りゆく運命を。
 オトコは逝く。いとも呆気なく。恍惚の呪いをかけられたまま。
 はらはらと舞う白い破片。
 にやりと笑う桜は夜叉。
 素知らぬふりで吹く風に、枝を揺すって忍び笑い。
 撒き上がる風に煽られて、声は次第に大きく高く、
 月までも震わせて響きわたる。

 満開の桜は 散りゆく運命。
 降り落ちる花弁は、仄白い雪。屍体を隠す春の雪。
 朽ちた花弁は土に還る。朽ちた屍体は土に埋もれる。
 眠る屍体の精気を吸い上げ、桜は命を永らえる。


〈いったいどこから浮かんで来た空想かさっぱり見当のつかない屍体が、
 いまはまるで桜の樹と一つになって、
 どんなに頭を振っても離れてゆこうとはしない〉
基次郎が想像する屍は、得体のしれないもの達だ。 
だが、私は想う。
桜の樹の下に眠る屍体は、オトコ。
そう夢想するのは、わたしがオンナ、だからだろうか。


         参照 【桜の樹の下には】 
                          著者 梶井基次郎



―2002/03/19―