タナカマキコが、思わず涙をにじませた。
涙はオンナの武器。
鬼の目にも涙。
いろんなコトバが、巷に飛び交った。
その涙の是非は別にして。
彼女は、とにかく、クヤシカッタのだろう。

もうずいぶんムカシのことだけど。
やたらめったら独占欲が強くて、嫉妬深いオトコがいた。
傍目には、快活なオトコだった。
人当たりもイイ。明るいお調子者でもある。
ナニゴトもなくふたり一緒にいるときは、何のモンダイもなかった。
が、ふたりが離れているとき。
オトコは、わたしが何をしているかを異常に気にした。
スケジュールを全て把握していないと気が済まなかった。
それ以外の時間には何をしているのか、それまでも知りたがった。
自分の知り得ない空白の時間があることが、許せないのだ。

「今日は学校の講義が終わるのが3時だから、そのまま一目散にオレんちに
来れば、4時20分には着くはずだ。それなのに、着いたのは4時30分。
どうしてこんなに時間がかかったんだ。いったい、どこで何をしてたんだ」
追求されて、しかたなく、
本屋で雑誌をちょっと立ち読みしてたとか、
ケーキ屋のウインドーを見てみたけど、食べたいものがないからヤメタとか、
そんなことを説明してみる。
が、疑心暗鬼のカタマリは、そんなことで解消されない。
こちらにしても、どう追求されようと、そんな些細な行動を証明しようがない。
本屋で横にいたオジサンを引っぱってくるわけにもいかない。
たとえそのオジサンを探し出したところで、
横で立ち読みしてたのが、どんなオンナだったかなんて憶えてもいないはずだ。
最初は、おとなしく従順にしていたわたしも、いいかげん面倒になってくる。
なだめすかすのにも疲れて、ふてくされる。
たとえ他のオトコと会ったとしたって、たったの10分で、いったいナニができるってのよ。
なにっ!! やっぱり、他のオトコと会ってたのかっ!!
……。
わたしは、返すことばを失っていた。

ある日曜日、同窓会のようなものがあった。
オトコには無関係の会だったから、同席するわけにもいかない。
終わったらオトコの家に行く約束をして、わたしはその会に出席した。
しかし、会はなかなか終わらなかった。
予定時間を過ぎても、お開きにならない。
ジリジリと時計を見ていたわたしは、どうしようもなく、
「ちょっと用事があるので」と会場を出て、オトコの家に向かった。一目散に。
その頃のわたしは、ただ、もう怯えていたのだ。
今から考えると、アホらしいとしか思えないのだが、なにしろ若かった。
オトコの「怒り」というものが、ただ単純に怖かったのだ。
オトコの家に着いた時には、「予定時間」を大幅に過ぎていた。
案の定、オトコは、怒りくるっていた。
とりあえず説明してみるものの、聞く耳を持たない者にナニを言ってもムダだ。
ひとり逆上するオトコを見ているうちに、わたしは、なぜか落ち着いてきた。
からだの中が、どんどん鎮まってくる。
どんどんキモチが醒めていく。
まったく理解できない芝居を、早く終わらないかなぁと眺めているかのように。
アホらし……。
わたしはそばにあったバッグをつかんで、スタスタとオトコの部屋を出た。

その後も、オトコはなんだかかんだと言ってきたが、うるさいので放っておいた。
数ヶ月後、ようやくトーンダウンしてきたオトコに、久々に会った。
きっぱりとケリをつけたかったのだ。
会ってみてようやく、わたしには未練のひとかけらもないことを、相手も悟ったらしい。
分かったと言いながら、彼は言った。
「あのあと、Yちゃんに会って聞いたんだけど」
え? Yちゃんは、あの会に出席していた友人である。
「あの日、キミが何時頃帰ったのかって」
あ??
「キミは、用があるからって、そそくさとひとりだけ早く帰っていったって」
そうだ。そのとおりだ。
「そんなにそそくさと会場を出て、キミはどこへ行ってたんだ?」
は?? どこへって……。
オマエのとこだろーがっ!!
ぐわーっと怒りが湧いてきた。
あまりのことに、涙が滲んだ。
目の前にあった銀のティーポットを投げつけてやろうかと思った。
大声で怒鳴ろうとして、口を開いた。
……が。
わたしの口から出てきたものは、大きな大きなタメイキだった。
脱力した。
こんなのとつきあってきた自分が、バカだった。
もういいや。
とにかく、今日ですっぱり別れられる。
なんとでも思っていればいい。
勝手にしろ。
わたしは滲んだ涙を飲みくだして、席をたった。


もう何の関係もないヒトだし、何の接点もない。
すっかり遠い過去のことだ。
だけど、なにかの拍子にあの時のことを思い出すと、ふっと血が逆流する。
やり場のない怒りが、くわっと首をもたげる。
潔白を証明できない無実の罪人のように、
どうしようもない、モドカシサ。クヤシサ。
あの感情だけが、今もからだに残っているらしい。

タナカマキコの涙を見たとき、
ああ、クヤシイのだろうな、と思った。
地団駄踏むほどにクヤシイのだろうな、と。

たしかに。
オンナはすぐに涙を流すことができるかもしれない。
涙を武器にすることだって、やろうと思えばできる。
でも、武器にした涙は、すぐに消えてなくなる。
流した本人が忘れてしまうくらい、あとかたもなく。
しかし。
クヤシサのあまり、ぐっと歯をくいしばって飲みくだした涙は、
からだの中に細く小さな溝を作って、逆流していく。
その流れが途絶えて消えても、小さな溝は、いつまでも残っている。

クヤシ涙は、侮れない。



―2002/02/06―