いつもはタブロイド誌やPCの画面で読んでいた未明さんの作品を、紙の上のインクで、縦書きで読んだ。
やはり「本の世界」は…ある。と、まず確認。
用意したのは珈琲とジャズ(シャンソンはピエール・バルーしか持っていないので)。
一気に読んでしまった。すでに知ったテキストもあったけれど、まっさらな気持ちで一気に。
とくに最後の「溺レルアナタ」の後半に向けてうねる物語にすっかり夢中になってしまった。

読みながらとったノートのメモに残された言葉で「廃棄されるもの」という言葉が目につく。未明さんはあきらかに「その側」に立って言葉を発しておられる。廃棄されるもの……奪われ、傷つき、失われ壊れていくもの。それらへの「愛」と「で、あるがゆえの」力を感じた。 

「家鳴り」の母とわたし、「ニンギョヒメ」の祥子、「オリヒメ」の小夜子、「溺レルアナタ」のわたし。幾度も繰り出される静かな形容詞に包まれるごとに、彼女たちは読み手の意識を撃ってくる。そういう意味の「力」。
女たちは愛するものを離さない。離そうとはしない。ふかく「女」であろうとするために。彼女たちは何らかの意味ですでに「廃棄」されている。だからこそ逆にあらわになる力。魔力のようでもある。未明さんの描き出すそれは、静かで綺麗。ていねいに磨き上げられた古い階段の輝きのようだ。 

あるいは「港の女」というイメージが最終話で浮かんだ。
港はよく女に喩えられる。流れいくものに優しく、拒まず、やってくるもの全てに受身だからだ。…という男の幻想なのだけれど。
逆に「港の男」というのは徹底して浮世ばなれしている、どうしようもない奴として小説にも登場する。スクエアな人から見ればどう見ても「溺れてる」いや「溺死」している。
「溺レルアナタ」の作家のようなタイプだ。
あの話の登場人物と設定が強力に「港」を感じさせた。全ての男にとって「鈴」こそが「港」として存在していたからでもある。 

全てを受け入れる。執着から一番遠いように見える。それは「廃棄されていること」に繋がって行くけれど、その諦観とも言うべきもののなかから立ち上がったとき、彼女達はまったくのanother oneとして静かに輝く存在を獲得している。 この世の幻想に縛られているもの。社会的な幻想と言い換えてもいい。そこを逆照射するような存在の女。
その「おんな」を強く感じた。 

未明さんがこだわったというカヴァーの宮崎さんの人形が象徴的でもある。ドイツ表現主義の中で異彩を放ったエゴン・シーレ。
悲惨なまでに削ぎ落とされた裸体。奇妙に捻じ曲げられた腕と手。
そうすることでブヨブヨした現実を拒否し、徹底的に自らにリアルであろうとした魂。
彼女の狂おしくかき抱く姿をじっと見入ってしまった。自らをあるいは夢を抱きしめるその腕はデフォルメされ、抱き殺してしまうほどの力に満ちている。
まさにこの本の全てを象徴するカヴァーと言えるでしょう。 

静かで力に満ちた本でした。
未明さん、これからもがんばってください。

(追伸)
用意したジャズはDon't Explainでした。歌詞のないウィントン・ケリーとケニー・バレルによるものです。

西原正Website http://www2.ocn.ne.jp/~waltz/
In Paradism http://pipilulu.ameblo.jp/