最近、インターネットを通じて書籍を出版しようとする目的のWebサイトがいくつかできている。

ネットと活字。

 一見、水と油の如く乖離しているかのように見える両メディアだが、世に大勢いる「名を知られてはいないが、文章を書くことが好きで、自分の作品を持っている」人たちに、それを「本」の形で公表する場を与えることや、作家デビューを目指しながらもきっかけがつかめず埋もれている才能の発掘・育成に、インターネットは大きな力を発揮しうる。

 本稿で紹介する田川未明さんは、自らの作品の文芸作品Webサイトへの投稿活動を通じて、「作家になる」という夢をかなえつつある方である。
田川さんとは、ある作詞家の方が開設されているホームページの掲示板で知り合った方からご紹介いただいた縁=その方の、学生時代からの親友である由=により、ネット友人(と、先方より認定していただけているかどうかは定かではないが)として、幾度かお話を聞かせていただいた。
そして、作品を掲載されているWebサイトを訪問して、「ミメイ・ワールド」とも呼べる素敵なコトバに、惹かれるものを感じはじめた。
その田川さんが、この夏長年の念願をかなえ、小説「溺レルアナタ」を出版した。本稿は大胆かつ僭越にも、同書に対する「書評」を試みようとするものであり、田川さんの今後の創作活動へのささやかなるエールとなることを目指すものである。


 著者は、この書で描かれている主役たちについて、「ちょっと怖いオンナのお話、ちょっと方向を間違えた愛のお話」と述べているが、「”オトナシイ”(大人しい、大人らしい)女性が、その奥深い心を、家族や恋人に対してふと垣間見せるさま」を描いた作品だと思う。
その「オトナシサ」と、陰画である「怖さ」こそが、世間でイメージされる「女性ジェンダー」の本質であるのではないかと、筆者は感じている。


 その観点から本書を読むと、冒頭の「家鳴り」が、その「オンナの本質」に最も迫っていると思う。この作品は、以前「秋雷」というタイトルでWebサイトに掲載された作品の加筆完成版である。
Web小説と、従来からの活字による小説との対比という点でも興味深い。
Web版では、主人公麻子の「プチ引きこもり」気質が目立ち、どこか元気のないようなストーリーのようにも見えたが、本作品では彼女が密かに義兄の子を宿しているということが大きなポイントであり、これにより本作品にははっきりとした「意志」が与えられた感がする。


 「家」は、それを「建てて、住まわせる」ということにおいては「男性ジェンダー」の象徴ともなるが、それを「守り、営む」ということにおいては「女性ジェンダー」の象徴ともなる。麻子たちの住む、古く軋み音の多い家は、かつては勤勉実直だった父親のものであり、すなわち「男性ジェンダー」に属するものだった。武骨な乱杭歯を持つことから父に命名された飼い犬「グイ」の存在は、ある意味その象徴であるともいえよう。

 しかし、その力強い父が急死して、それまで夫と姑(麻子の祖母)からの、窒息しそうなまでの圧力に耐えつづけてきた母が、心的外傷により寝たきりとなるという事態の展開により、この古い家は、そのジェンダーを「女性」に交替させはじめる。麻子は、その「女性原理」の象徴であり、ひと足早く結婚で都会に出て、おしゃれ・美容、料理教室、息子の受験…と、「洗練された生活」を目指して奔放に生きる姉・蓉子が(もちろん、身体と外見は女性であるが)内包している「男性ジェンダー」と対峙する。

 その背後には、人としての営みをすでに止めてしまったようでありながら、この家を資産価値などの「男性原理」で読み解こうとする人物の侵入に、悲鳴をあげることで抵抗する母の存在がある。グイの存在もまた、「女性」となっていく家を守るための忠実な僕(しもべ)という意味合いに変わっていく。そして、蓉子の知らぬ間に義兄の子を身ごもった麻子は、やがて娘を産むことでこの戦いに「勝利」して、その時点でこの家におけるジェンダー交替は完了するのであろう。

「家鳴り」は、あたかもその勝ち鬨のように聞こえてくる。


 それにしても…この種の話を読むと、男性は本質的に女性の僕(しもべ)たる存在であり、男性原理は女性原理に絶対かなわないものであると、つくづく思う。
「ぼく」(僕)という一人称が男性のものとして使われているのは、元来は階級制社会において、「自分は、主君に仕える身であり、その御意のままにふるまう存在である」と、自らをへりくだらせたことに由来するものだろう。それが、民主主義が定着した平和な時代に男性一人称の代表格として世間に定着して、女性の「わたし」と対比される形となっているのは、一見「男性社会」であるかのように見えるこの世の中の、隠れた本質を示しているのではないか、とも思う。この世は、とかく男性優位で、女性はマイノリティーとして差別されている、ということになっている。

 しかし、逆から見れば、「男性社会」とは、男性は無理矢理にでも女性より優位に立たなければ生き延びていけないほどの弱く脆い存在であることを、男性自らが無意識のうちに示している社会相である、とも言えるだろう。


 姑(彼女も、男性原理の下で生きる女性だったのだろう)から嫌味を言われながら、家のメンテナンスを完璧に行うことで彼女を歯噛みさせていた母、そして麻子と、女性原理の「オトナシイ強さ」が男性原理を駆逐していくこの物語を読んでいると、私はある未来予測を思い起こす。
その予測では、「人類は、いずれ遺伝子的に脆弱で、その暴力性・攻撃性ゆえに地球環境により多くの負荷を与える『オス』の性をなくしていき、女性のみで生殖・生活ができるように進化していくであろう。」と説く。

 この小説は、「いま」の時代の話なので、麻子は生身の男性である義兄を介して、自らと母の意志を継ぐ、次世代の女性を産み出そうとしているが、はるか遠い未来に設定するならば、自力のみで娘を産み、「男性」はもう必要とされなくなってしまうことを描く物語となるかもしれない。
母が幼いころの麻子に話した鈴虫の生態は、自分たちの生き方とオーバーラップさせる意味合いで描写されているが、両性生殖生物が普遍的に有している性質である、「雌性の強さ・雄性の脆さ」を暗示しているものでもあると思う。



 表題作「溺レルアナタ」は、著者あとがきによれば、かつて松本隆さんの作品も取り上げたキャリアを持つシャンソンシンガー「クミコ」のレパートリーをイメージして書かれたものという。
この物語の主人公・鈴は、幼いころ母親がある日突然失踪してしまうという体験を持っている。

 そのとき、ショックと悲しさのあまり泣き続けた彼女は、やがて泣きはらした挙句目を患うが(状況からいえば、涙腺に雑菌が侵入したことによる化膿なのだろう)、診察にあたった眼科医から言われた言葉「泣いていると、どんどん弱虫になる。弱虫になると、泣きたいような悲しいことばかりやってきて、もっともっと泣き虫になる。」が、呪文のように重く心にのしかかる。
彼女は、その体験を「心の傷」として抱えたまま成長して、「泣くことができない」人となっていた。

 この物語は、そんな鈴がふとしたことから妻子持ちの男性・来生と知り合い、恋愛関係へと深まっていく様子を描写する。恋愛が進み、来生が、鈴にとって自分の心の傷を治癒する「なくてはならない」存在になっていくと同時に、鈴は来生を「溺れさせ」ようとしていることに気づき始める。

 そんな折、鈴は自分が働いている西洋骨董品店の常連客である中年男性作家から、あるシャンソンの曲を勧められる。
その曲が、「ある男性が川面を流されて、溺れていく姿を、彼を愛した女性が岸辺で、ただじっと見つめて、そこに恍惚感を覚える」というモチーフの、クミコ歌うところの「溺れるあなた」なのである。

 筆者は、この曲自体は知らないのだが、クミコ氏の歌声はライブ等で聴いたことがあるので、おおよそのふんいきは推察できる。鈴と来生は、その曲を聴きながら、自分たちの境遇を重ねあわせていく。やがて、来生は妻子をあきらめて「溺レルアナタ」となり、鈴は涙を取り戻す。


 そんなストーリーなのだが、別種の心の傷がもとで、恋愛・性愛からはほど遠い人生を歩み、あらゆる意味で「大人」になれない筆者にとって、鈴と来生の情交や関係の深まり、作家の無頼派気取りなどは、いささか遠い世界のように思えた。

この作品で筆者の目をひいたのは、初めのほうにある、 「この世には、自分の知らないところで、こっそり決定されてしまうことがたくさんある。…(中略)決められてしまったものは、どうしようもない。シカタガナイことなのだ。」という一文であった。

 そう、ほとんどの人は、「他人にこっそり決められたこと」に激しい苦さを覚えて、そこから育っていく。
人の幸福…というか、QOL(人生の質)の多寡は、他者からこっそりと決められてしまったことが、どれだけ自分の気持ちに合致しているか、また合致していない場合に「シカタガナイこと」と思える能力がどれだけ備わっているか(あるいは、人生の過程で身につけられるか)に、大きく依存しているように思う。


 筆者の場合は、3歳のある日、突然「きょうだい」ができると、母から告げられたことであった。そして、4歳の誕生日の直後、その子が重度知的障害者として生まれてきたことであった。筆者は、その体験を通じて、「命を産みだす」ことの怖さを、無意識のうちに思い知ったのだろう。
以来、「泣くことができなくなった」鈴と同様に、「愛すること・愛されることができなくなった」まま育ち、そのまま現在に至っている。来生のような、心の傷を埋め合わせる存在に出会うことはなく、また今更出会うべくもない。


 それ以前に、そもそも「オンナに生まれるか、オトコに生まれるか」「女の子として育つか、男の子として育つか」(両者は極めて似ているが、完全に一致することではない)も、いつのまにかこっそりと決められてしまうことのひとつであろう。鈴虫など、他の生き物は、自分に割り当てられた「性」について考える知能を与えられていない。従って、各個体は雌、あるいは雄の生態を忠実に行う。

 鈴虫ならば、雄は成長すると、哀愁に満ちた音色で鳴き、その鳴き声が出なくなると衰弱する。雌はそのころ、産卵のために体力を蓄え、衰えた雄を食して次代を産みだすための糧とする。そこには「意志」は介在せず、ただ遺伝子の働きのみが存在する。「ヒト」のみが、自らに割り当てられた遺伝子の働きを客観的に認知して、それが自分の意志と合致しているかどうかを感じ取ることができる。

 たいていの人は、その感覚を働かせずに生涯を過ごすことができる。しかし、「シカタガナイ」ことと納得するまで、長い時間を要する人や、「シカタガナイ」とは思い切れない人もまた、この世には存在する。


このような読み方は、おそらく著者の意図するモチーフとは合致していないものであろう。しかし、心の傷を負って育った筆者は、鈴の送ってきた人生に、また別の角度からの光をあててみたくなる。



 以上の長編2作が、この著者が持つ才能をよく表わしているのに対して、短編の「ニンギョヒメ」は、まだ力量を示せる余地が残されているように感じた。当方の読解力が拙いためかもしれないのだが、「ニンギョヒメ」の語り手である「わたし」と「シン」の関係が、今ひとつ理解に至らなかった。

 ただの友人つきあいなのか、それとも「わたし」の方が恋人としたいと意識しはじめている段階なのだろうか?また、バイクの事故で祥子の弟・耕治と共に亡くなった、祥子のコイビトとシンとは、交流があったのだろうか?


 同じく短編である「オリヒメ」の、目上の人から持ちかけられた縁談に応じるために、それまで交際していた女性を「捨てよう」とする男性に対して、その女性が静かに復讐をするというストーリーそのものは昔からよく語られていて、著者にはいささか失礼になるが、そう目新しいものではない。

 しかし、この作品では「いそまくら」という語が、実に効果的に使われている。 この、優雅な響きを持つ古語を使うことによって、古典的なストーリーに新風が与えられている。が、最後の方に出てくる「受話器の向こうで、室井が何か言っている。」は、「小室」の誤りではないだろうか。



 田川さんの作品には、携帯電話、MDなど、21世紀初頭の「いま」の時代ならではのアイテムが登場するが、読んでいるとどれも少し前の時代、すなわち1970年代か1980年代初めを描写している物語であるかのように思わせられる。

 しかし、それは決して「古くさい」というマイナスイメージにつながるものではなく、むしろ読者に「なじみ」感を与える、プラスイメージの「古さ」である。その「なじみ」感覚に、携帯電話やMDなどのデジタル機器の描写が加わることで、読者はこれらの作品に、未来感覚に通じる「新しさ」を見いだすことができる。

 それは、著者が古くからあるものだけにこだわることなく、斬新な感覚を取り入れ、その両者をバランスよく描写する才能に長けているからなのであろう。また、古くからある言葉に、新しい生命を吹き込む力にも優れている。

 アンティークな色彩を持ちながら、極めて未来感覚にもあふれている…「ネオ・アンティーク」ともいうべきところが、「ミメイ・ワールド」の大きな持ち味であろう。これから生まれる作品に、大いに期待を寄せるものである。